津波があった歴史を肌に感じることができます。
濱口堤防の前に、畠山の石堤が、あります。
歴史的にも、価値のあるものですが、地方自治体によって破壊されていて、あまり重要視されていません。
江戸時代末安政期の津波に対する庶民の意識が伝わる貴重な遺産。
すぐ近くの稲むらの火の館とセットで見学すると津波の恐ろしさと、濱口 梧陵を中心にいかに世の為人の為に生きる事が大切かを痛切する事ができる。
今年2回目の紀州釣りで、初めて湯浅漁港の南側にある広村へ行きました。
足場も良くて車を横付け出来るのが最高の釣り場です🙂降水確率80%でしたが、小雨程度中ボラのハラスメントにもメゲずにダンゴを打ち返してると、小さいですが今年初チヌを釣りました😅
資料館でも学習したあとに、じっさいの堤防を見ると、津波があった歴史を肌に感じることができます。
のどかな感じですが、ここに津波がやって来ることを想定して先人の努力ですので、勉強になります。
防災における先人の知恵間近で感じられる。
2021.2.3NHK「歴史秘話ヒストリア」で紹介されました。
松ぼっくりが拾えます。
ここに来たら、ここには行かなきゃ、ってところ。
ここを歩いて、左側の民家と右の松および海を交互に見やって、濱口梧陵先生の業績を体感してください。
春うらら いい町 堤防は良い散歩道。
安政元年(1854)の津波を受け、濱口梧陵が築いた長さ約600m、基底の幅約20m、高さ約5mの堤防で、国の史跡として文化財に指定されています。
梧陵は多額の私財を投じ、多くの村人を雇用することで、津波の被害で荒廃した村から人々の離散を食い止めました。
昭和21年(1946)に発生した昭和南海地震では、市街地への津波の流入を防ぎました。
稲むらの火の館で申し込めば、耐久社や濱口梧陵銅像とあわせて、語り部による案内付きで見学できます。
イベントで車がいっぱいのこともありますが普段は静かで休憩にはよいとおもいます。
ヤマサ醤油の七代目当主である、濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)が広川町から津波を防ぐために作った堤防です。
度重なる津波被害により、濱口梧陵はヤマサ醤油で得た資金を元に堤防を作る事業を作りました。
津波により町が荒廃して、仕事が無くなったことで仕事を提供するという意味もこめての事業であり、住民の方々に給料を払い、そして堤防は作られていきました。
現地では景観にまぎれてなかなか堤防は分かりづらいですが、国の指定文化財にも指定されるなど、広川町の見所の一つとなっています。
詳しくはブログ『知の冒険』の稲むらの火の館の記事を参照していただければm(__)m
地元の名士、浜口の自費による防潮堤です。
桜の名所でもあります。
散歩道として歩くのも楽しいです。
この堤防を民間の人がと思うと、とても凄い事だと思う。
実際に津波を防いだということは素晴らしい事です。
近代的な場所もありましたが、昔の面影が残っている場所もあって見応えがありました。
濱口家が私財を投げ売り、この堤防を作ったようです👍
帰省中に寄りました。
稲むらの火の館は年末で閉まっていました。
残念。
その先に堤防が。
コンクリで補強されているところもありましたが、当時人力で作ったのかと思うとすごいですねーの一言に尽きます。
ただ、堤防の海側に家建てるの見て、何故そっちに?とも思いました。
まぁ、港の堤防もありますし、深く考えない事に(^.^)
濱口悟陵が私財を投じて建設した堤防。
昭和南海地震では広川町を津波から守りました。
ただ、高さが5mしかないので来たるべき南海トラフ地震の津波に対してはかなり不安です。
以前テレビで広村堤防のことが取り上げられ、興味を持ったので訪ねました。
堤防は今見ると規模的に大きいとは思いませんでしたが、この高さ、長さをすべて人力で作ったと思えば苦労がしのばれます。
現在は堤防を一部切り崩して赤門と呼ばれる防潮扉があり、その向かいにも「高台避難 通行止」と大きく書かれたゲートがあったりと街一丸となって防災に力を入れている様子が窺えました。
広村堤防は和歌山県有田郡広川町にある防浪堤防。
広川町には室町時代から堤防が築かれて来た。
1854年安政元年に発生した安政南海地震の後に濱口梧陵の指揮のもと「広村堤防」が築造された。
後にこの堤防は昭和南海地震の津波の際などにおいて効果を発揮した。
国の史跡に指定されている。
畠山氏の堤防広村、現在の広川町は湯浅湾の最奥部に位置するため古くから津波で甚大な被害を受けてきた。
1399年応永6年豪族畠山氏が紀伊の領主となった。
畠山氏は津波対策として海岸に石垣を築いた。
石垣は海面からの高さが一間半2.7m、長さが四百間727mの堅固なものであった。
この石垣はコンクリートで補強され現在も災害対策に活用されている。
この石垣が造られたことは広村がその後繁栄した要因の1つといわれている。
広村はその後最盛期を迎え、人家が1,700戸に達した。
和田の石堤と宝永地震1619年元和5年徳川頼宣が紀州の藩主となった。
1661年~1673年の寛文年間に、湯浅湾に「和田の石堤」と呼ばれる石垣が造られた。
これは、湾内の船を高潮から守るためのもので、長さは120間218mあった。
この石垣が造られたことによって広村は中継港としての機能を持つようになった。
1707年宝永4年宝永地震が原因で起こった津波によって広村は壊滅的な被害を受けた。
当時の広村は1,086戸の規模で、「湯浅千軒広千軒、同じ千軒なら広がよい」と謳われていたがこの津波で850戸が失われ、192人の死者を出した。
安政地震の「稲むらの火」浜口梧陵成則さんが、私財を投げうち四年で築いたという広村堤防。いったいどんなんやろ??と見に行ったのだが「ぽか~ん」案外ショボかったよ。高さ五m、長さ六百m、所々車道の為に切り崩し、コレでは津波に対して役に立たないのではないか。これでイイのか?広川町…
名前 |
広村堤防 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0737-23-7795 |
住所 |
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関連サイト |
https://hyakusei-no-ando.com/heritage/%E5%BA%83%E6%9D%91%E5%A0%A4%E9%98%B2/ |
評価 |
3.8 |
休日は、のどかな堤防。
釣りされている方も散見。
釣果は確認できませんでした。