名前 |
乃久里神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
主祭神 弟橘姫命配祀神 日本武命 吉備津武彦命 天照大日孁尊 宇迦之御魂命 大山祇神 火産霊神 大国御魂神 手力雄命群馬県指定無形民俗文化財「神流川のお川瀬下げ神事」お川瀬下げとは祭神をお神輿に遷し、行列を仕立てて神流川の御台所に祀り、ご神体を清め無病息災、五穀豊穣を祈る神事です。
祭典は八月に行われています。
お神輿は、神社から猿田彦命を先頭に、子ども達のたたく太鼓やお囃子とともに川瀬に向かいます。
神流川の川瀬に設けられた御台所(台座)の回りを三回まわった後、御台所に据えられます。
神官がお神輿の前に座り、川上に向かって祝詞を奏上します。
祝詞が済むと供えてあった小麦団子を数個ずつ流します。
伝説によると弟橘姫命には七十七人の子どもがあり、それを祀っている乃久里神社の末社が全国に七十七ヶ所あり、そこに捧げるためと言われています。
お川瀬下げが終わったあと、境内の神楽殿で神楽が奉納されます。
群馬県内では、かつて山中領と呼ばれたこの地域(現在の上野村・神流町)だけに残された行事で、上野村乙父神社・神流町中山神社の神事とともに「神流川のお川瀬下げ神事」として無形民俗文化財に指定されました。
(乃久里神社案内板より)上野村指定無形文化財「野栗の太々神楽」野栗神楽は旧中里村(現神流町)明家の産泰神社の神主が秩父地方から習い伝えた説と、同村魚尾の中山神社を造営した宮大工が伝えた説があります。
面や衣装は中山神社の神楽と共通していて、面の裏側に両村の寄進者銘が記してあります。
両者とも明治の中頃に伝わり始められた江戸系に属する秩父地方の神社系統であると思われます。
(境内案内板より)起源譚①伝承では、当地で日本武尊は今まで身につけていた弟橘姫の遺髪を祀り、重臣を残してこれを護らせたといわれています。
当地に留まった重臣は「残りの臣」と称しましたが、後に「のこり」が「のぐり」と変じ、「野栗郷」と呼ばれるようになったといわれています。
当社も野栗神社と呼ばれるようになりましたが、現在は乃久里と表記しています。
(ブログ「Tigerdreamの上州まったり紀行」より)起源譚②昔々、姫の一行がこの川を渡ろうとされた際に川の水が急に増えたので、姫が裾をからげたところ、そのために陰毛が見えてしまいました。
慌てた姫は抱きかかえていた七十五柱の御子神を川に流してしまわれました。
この御子神のために川瀬で祭りを行うようになったといいます。
神流川流域では御輿を川瀬に降ろして祭りを行う「お川瀬下げ神事」を行う神社が他にもあります。
同じ上野村内でも乙父神社では四月、勝山神社は四月、塩ノ沢神社、乙母神社、川和神社は九月、新羽神社では十月と、春ないし秋に行われています。
いわば稲の祭りのサイクルによって設定された祭日です。
一方、乃久里神社では、もとは六月に行われ、明治六年から新暦の八月に替わりました。
本来の祭日である六月に注目すると、この日には麦の収穫にかかわる祭りが各地に見られることが知られています。
小麦を用いた神饌、祭日の設定ともに、乃久里神社の川瀬下げ神事は、麦の収穫祭であることを示すものと考えられます。
(「乃久里神社のお川瀬下げ神事と小麦団子」より)