昭和時代の写真があれば投稿してくださいませ。
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瑠璃光寺 本尊:薬師如来 今は「79番札所天皇寺 奥の院」となっていますが江戸時代初期の京都智積院の僧、澄禅の『四国辺路日記』には、この瑠璃光寺こそが弘法大師が定めた札所であると記されているそうです。
崇徳天皇社(崇徳天皇の御霊が京都白峯神宮へ戻った後は天照大神と金山御神体を祀っているのが現在の白峰宮)と別当寺(神宮寺、神護寺、宮寺とも言う)の摩尼珠院(明治政府の神仏分離令で廃寺となるも明治20年に筆頭末寺の林田村にあった高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだのが現在の金華山高照院天皇寺)が繁栄し、大伽藍を誇示するようになった為、事情を知らない巡礼者が崇徳天皇社を札所と思うようになり、瑠璃光寺はいつしか荒廃。
その後、江戸中期に79番札所の奥の院として再興されたとのことですが何しろ地の利を得ていない場所にあるので現在のお寺と言うよりお堂を見るにつけ、おそらくその後も再建・荒廃を繰り返してきたのが現在の姿ではないでしょうか。
お堂の中には数体の石仏がお祀りされていますが、中央に安置されている石仏こそ弘法大師によって彫り出され、元は瑠璃光寺の参拝路脇にある金山の水源池(野澤井の源泉池と言われている)に安置されたと伝えられる薬師如来かと思われます。
本来の札所であったとされる瑠璃光寺には奥の院があります。
残念ながら今は在ってなきが如く荒れていますが、写し霊場の石仏(現在は60基ほどの石仏が残っています)を辿りながら、瑠璃光寺前から北に延びる踏み固められた軽四が通れる程度の山道をゆくと奥の院があります。
どんなに今は荒れていようと、この奥の院の存在は瑠璃光寺こそが本来の札所であったのかを訴えているように思えます。
江戸時代末期までの神仏習合時は本地垂迹説によりこの薬師如来が金山大神の本地仏(仏・菩薩が人々を救うため、仮に日本の神の姿をとって現れるという考え方で、お薬師さんが権現さんの姿を借りて人々の救済に現れたということ)でした。
【おまけ】 国土地理院地図によればお堂の裏を西北西に登って尾根に出れば金山の登山路に合流できるようなので、カンカン石(サヌカイト)に覆われた急勾配をやみ雲に登りました。
確かに尾根には登山路はありましたが、現在は殆ど利用されていないのか標高200m辺りから山頂までは身長よりも高い笹が生茂り、茨とつる草、更に鋭いトゲのあるタラの木が沢山あるので剪定鋏を片手に薮漕ぎに難儀しながら何とか山頂まで登りました。
途中にはあちこちに色々な石碑が建てられており高圧送電線塔下ルートがもっぱら使われるようになるまでは地形的にも本来この道が利用されていたのかなと思いました。
下りは尾根道をもう少し北に下り(高度は170mぐらいか)そこから東方向にカンカン石をキン・キン、チャリン・チャリン、チリン・チャリン踏み鳴らしながら瑠璃光寺から奥の院に至る山道(41番の十一面観音石仏脇)に下りてきました。
79番天皇寺奥の院こちらも入口が大変わかりにくいです.天皇寺の裏,とろこてんやさんと八十場共同墓地の間にある坂道を登ります(写真).すぐに金山大神と書いてある石の鳥居があります.そのまま蜘蛛の巣に襲われながら坂を登ります.ここは特に丁寧にお参りください.雰囲気がちょっと違います.御朱印は醍醐寺(天皇寺ではありません).車で10分弱.事前に電話したほうが良いです.醍醐寺,優しいご住職がいらっしゃいます.
名前 |
瑠璃光寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
坂出市の金山の山麓に有る金山神社の境内に有る小さなお堂です。
金山神社の神宮寺で古くは大きなの建物が有ったようです。