目の前にある川が今はキレイとはいえない。
かつて、茶の湯を愛好した豊臣秀吉が好んで使ったという、大川の水を汲むために設けた小湾を偲ぶ碑。
この辺りでは、明治初期まで川から汲んだ水をそのまま飲料水として売っていたとのこと。
当時の大川は、川幅が今よりもかなり広かったようで、澄み切った水が滔々と流れる、その名の通り大きな川であったようです。
なお、この碑は文久2年(1862年)に建てられたもの、とのことです。
桜宮堤防下の淀川左岸にかつて水が渦巻く青湾という小湾がありました。
豊臣秀吉はここの甘く香る水を好んで茶の湯に用い、後世の隠元・高遊外・上田秋成・田能村竹田ら雅人たちも賞賛したといいます。
明治28年(1895)に上水道ができるまで、大坂市中の飲料水として水屋が水船に積んで市中に運び、戸毎に供給したのもこの辺りの淀川の水でした。
青湾の名称は秀吉に仕えた茶人・大江青湾に因む、あるいは秀吉が明使献上の西湖の水を数壷沈め、移植した西湖の柳が青く映ったことに因むなど、幾つかの説がありますが不明です。
文久2年(1862)の春、湾の近くに住み、日々に煎茶の水を汲んだ文人画家・田能村直入が播州山崎藩主本多忠明に「青湾」二大字の揮毫を依頼して碑を建てたのが青湾碑です。
落成記念には売茶翁百年忌追福を兼ね、大長寺などで「青湾茶会」が盛大に催されました。
のちに青湾は埋められ、青湾碑だけが櫻宮鳥居前の西側に残っていましたが、現在は淀川左岸の毛馬桜之宮公園に移されています。
平成25年(2013)に大阪市の有形文化財に指定されています。
目の前にある川が今はキレイとはいえない。
しかし、昔はキレイで飲料水としてそのまま飲むことができたとわかる場所。
この石碑見て、向かいの川を観ると、人間がしてきた事が自然に反する事だった事がよくわかります。
昔、大川、櫻宮の堤防下に清らかな青淡色の小湾があった。
今は埋め立てられ、石碑も現在地に移動したが、大川の優雅な流れは少しも変わっていない。
秀吉は、その湾の水が気に入り、何度もお茶会を開いたという。
今は、石碑近くにあった青湾を想像するばかり。
石碑は堂々としているので、人々の記憶から消えたりはしないだろう。
名前 |
青湾の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
きれいな水の源だった?のですね。