重要文化財の本殿は見応えあります。
延喜式内・染羽天石勝神社(瀧蔵山熊野権現) / / / .
かつて勝達寺という寺がありましたが、神仏分離令(神社と寺院とを区別させること)が明治初期にあり同寺が廃絶しました。
寺に安置されており平安時代に作られた木造不動明王坐像は現在は鎌倉市にある極楽寺に移されています。
重要文化財の本殿は見応えあります。
本殿は国指定文化財。
しかし、それよりも舞殿が益田氏の七尾城に建てられていた城の威光を感じる重要文化財的な建造物だと思う。
舞殿は、内部を結婚式などで使用するために手を加えられているため、かつて文化財指定をつけられなかった。
15年前くらいには、溜池に水が張っていて、ザリガニが住んでいた。
滝も流れていた。
神社の近くに、室町時代には勝達寺という寺があったが、廃仏毀釈により廃寺となった。
勝達寺の本尊は、現在鎌倉の極楽寺にある。
益田東高校の横を抜けて参道に入ると左手側に駐車場があります。
染羽天石勝神社は、古来より境内の弁天池の背後にある注連岩(しめいわ)を石神とした磐座信仰の形式で祀られており、奈良前期(725年)に天石勝命を祭神として創建されたと云われています。
なお、上古に大和より当地に移住してきた春日族がその祖神を祀ったものであるという伝承もあるようです。
平安期には『延喜式』の美濃郡五座に記される式内社となり、後に滝蔵権現と称して別当寺の勝達寺(しょうたつじ)を建立し、中世には益田氏の庇護を受けて発展。
その後、明治期の廃仏毀釈の影響で勝達寺は廃寺となり、瀧蔵権現は社名を染羽天石勝神社と改め、現在に至るとされています。
本殿は国指定文化財ですが、それよりも舞殿が益田氏の七尾城に建てられていた城の威光を感じる重要文化財的な建造物だと思う。
舞殿は、内部を結婚式などで使用するために手を加えているため、文化財指定をつけられなかった。
国指定重要文化財の桃山時代の本殿と本来祭祀されていた大岩が隣り合わせの静かな空間です。
ボランティアガイドの方がおられ、説明してくれました。
子供の頃に、この近所に住んでたら、絶対に神楽殿の下に潜り込んでるな。
益田市〔染羽天石勝神社〕に九日塚と呼ばれる芭蕉句碑が建っている。
春立ちてまた九日の野山かな 芭蕉 益田の俳人・蛸阿坊が天明3年(1783)建立したという古い碑。
天石勝命を祭神とし、複数の配祀神も祀られた神社で益田東高校の校庭と敷地を接しています。
創建は神亀二年(725年)。
通常は石段の上に鎮座する本殿への立ち入りは禁止されており、階下の神門のところからの参拝になります。
境内社(大元神社?)が同じ高さで少し離れた南側にあり、こちらは石段を上がることができるので、本殿の姿をはっきりと確認できるのはこの位置からとなります。
結婚式場も兼ねた大きな神楽殿が敷地の中央にありました。
奥の池の中央に祠が建てられており、もともとは祠対岸の岩が御神体であったようです。
比較的大きめの神社ですが狛犬さんは居られませんでした。
天石勝命を祭神とし、複数の配祀神も祀られた神社で益田東高校の校庭と敷地を接しています。
創建は神亀二年(725年)。
通常は石段の上に鎮座する本殿への立ち入りは禁止されており、階下の神門のところからの参拝になります。
境内社(大元神社?)が同じ高さで少し離れた南側にあり、こちらは石段を上がることができるので、本殿の姿をはっきりと確認できるのはこの位置からとなります。
結婚式場も兼ねた大きな神楽殿が敷地の中央にありました。
奥の池の中央に祠が建てられており、もともとは祠対岸の岩が御神体であったようです。
比較的大きめの神社ですが狛犬さんは居られませんでした。
名前 |
延喜式内・染羽天石勝神社(瀧蔵山熊野権現) |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0856-22-3619 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
もと国宝だったそうですが、なぜ、どこが評価されたのか興味がありますね。
それにしても「そめばあめのいわかつ」という名前はなかなか読めないし、読めても覚えにくいです。