社会事業家であり地域づくりの先駆者である赤松照幢の...
浄土真宗本願寺派 徳応寺 / / / .
普通のお寺です。
周南市川端町の〔徳応寺〕にお邪魔した。
たくさんの碑の中に芭蕉句碑(霜釜塚)がある。
貧山の釜霜に鳴声寒し赤松照憧・安子先生の碑あり、赤松照憧は与謝野鉄幹の兄。
名前 |
浄土真宗本願寺派 徳応寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0834-21-1775 |
住所 |
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評価 |
3.3 |
6~7年前、社会事業家であり地域づくりの先駆者である赤松照幢の軌跡を調べる機会があって徳應寺を訪れました。
まず、街中にある近代的な建物であることに驚きました。
赤松照幢は、1862年(文久二年)、与謝野礼厳の次男として京都に生まれております。
余談ですが、照幢は与謝野鉄幹(後の明星派歌人)の実兄です。
7歳から照幢は京都において仏門で修行を積みます。
1886年(明治19年)、照幢(24才)は婿養子として赤松安子と結婚し、徳應寺〔浄土真宗〕の住職となります。
同年、山口県積善会(慈善団体)を設立するとともに、徳山婦人講習会を設立します。
翌明治20年には私立白蓮女学校(後の徳山女学校)を創立します。
更に、翌明治21年には防長婦人相愛会を設立します。
このように、照幢と安子は結婚すると直ちに二人で女子教育の推進に精力的に取り組んでおります。
さて、照幢は日清戦争(明治27・28年)が終結した頃、徳山東部で活動していた河野諦円と知りあったようです。
これが契機となったのか、1899年(明治32年)、照幢(37才)は徳應寺内に育児所を設置します。
1909年(明治42年)の「土曜講話」(金蘭会出版)に於いて「河野諦円を僧侶の中で最も優れた人物の一人」と賞賛しています。
10才年上の諦円とは師弟関係のような交流があったのではと想像します。
1913年(大正2年)、女子教育や慈善事業推進の同志であり妻である赤松安子が亡くなります。
このことの影響もあったのか、第一次世界大戦が終結した後の1920年(大正九年)、照幢は還俗し、家族や弟子を伴って被差別部落へ住居を移しました。
直ちに手掛けたことは、村民の集会所「会堂」を設置した事(後の「尚白園」に繋がります。
)、「会堂」に当時高価であった電話を架設した事、県の低利資金と村内資金で住宅改善を計画した事(突然の照幢の不慮の死により実現はしませんでしたが・・・)等です。
翌年(大正十年)、村内の子ども達とともに光の虹ケ浜へ海水浴に行ったのですが、心臓麻痺を発症し死亡しました。
(59才)この近代的な建物のお寺の歴史的背景には赤松照幢・安子夫妻の社会事業への真摯な取組みがあったということです。