2017.10.29~31、特別公開。
私は子供の頃加賀屋中学校に通っていましたが、英語の教師をされていました方のお名前が、山田静音先生です。
先生がお寺の住職をされておられていました。
今頃山田先生の偉大さに脱帽致します!
聖徳太子が自らの厄払いを兼ねて七堂伽藍を建て磯長山転法輪寺と名付けたのが一運寺の始まりです。
歴史のあるお寺ですね。
聖徳太子が建立した、という伝承を持ち、また最澄や空海、円仁、法然も訪れたという伝承を持つお寺です。
寺域内の墓地には『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助、主税親子と寺坂吉右衛門の墓(分骨されたのだろうか?)があるのですが、元は赤穂浪士を資金面で援助した大阪商人、天野屋利兵衛の菩提寺であった龍海寺に在ったものを明治期に移設したもの。
龍海寺には四十七士の墓がずらりと並んでいたらしいのですが、明治時代に廃寺。
彼らの墓は荒らされ、庭石に転用されてしまったり破壊されたりしたそうです。
それを惜しんだこちらの当時の住職が、残されていた大石父子と寺坂吉右衛門の墓をこちらへ移した、と伝わっております。
住吉大社から歩いて、赤穂浪士のお墓のある御寺さんが存在すると聞き、寄って見ましたが、お留守の様でした。
赤穂浪士の墓石があります。
赤穂浪士の墓がある場所ですそれ以外、目を見張る感じではなかったです、出入り口付近は普通に住宅が並んでます。
平成30年5月22日参拝御朱印あり本尊:阿弥陀如来宗派:浄土宗知恩院派縁起によれば、聖徳太子の創建とされ、天正十四年(1586年)に本誉存寧が再興し、寛永八年(1631年)に広誉龍哲が本堂を再建したとされる寺院。
境内には赤穂四十七義士のうち大石内蔵助良雄、その子大石主悦良金、及び寺坂吉右衛門の三基の墓があるが、これは近くの龍海寺に元々は四十七士の墓があったが、明治維新の際に龍海寺が廃寺となり、墓が壊されることになったため、一運寺の時の住職が大石父子と寺坂吉右衛門の三基の墓だけを一運寺に運んで懇切に供養したものとされる。
2017.10.29~31、特別公開。
法然上人が滞在された時期があり、去る時に詠んだ歌の碑があります。
赤穂浪士のお墓があります。
名前 |
一運寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6671-9682 |
住所 |
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評価 |
3.8 |
本堂の阿弥陀如来像がとても良かった。