2012/10/28来訪。
よい雰囲気でした。
「日本外史」で知られる頼山陽の祖父惟清の旧宅。
幕末の学問の家として東(仙台)の大槻家、西の頼家と並称されるが、さすがにこれはない。
大槻一族は当時としては実証的、科学的な業績を多数残したのに対し、頼家にはそれに比肩しうるものはなにもない。
「日本外史」にしても実証を軽視して史実と合わない軍記物を下敷きにしたもので、通俗小説といってもよい。
それが当時の尊王攘夷思想の流行に乗って、志士達に大きな影響を与えた。
歴史というのは概してつまらないものが影響力を持つから、それはそれで評価すべきだが、やはり彼は学者とは言えない。
文人墨客としてなら、一流の人物であったかもしれない。
川中島の戦いを活写した有名な「鞭声粛粛夜河を渡る」の一節は格調が高い。
かくいう私も大槻盤渓が頼家を訪問した際に写したという「日本外史」書写本の一部を所有している(笑)。
無料で入れます。
係の方もいらっしゃらないので、不用心だなとは思いますが、広島の文化を感じます。
頼又十郎は1707年、頼兼屋弥右衛門善裕の長男として誕生。
諱(いみな)を惟清と言い、晩年に享翁と号した。
交通の盛んな竹原の町に紺屋を営み和歌をよく詠んでたが、1783年、77才で没する。
その子・春永と杏坪は共に広島藩の儒官となり、第二子の春風は竹原の家を告ぎ、医院を開業。
この家は江戸中期の遺構がよく残っている県指定史跡。
見学無料であるが閉館中でした。
中が無料で自由に見学出来て良かったです(╹◡╹)
2012/10/28来訪。
竹原の旧宅は頼家発祥の家として旧状を保ち、昭和32年(1957)県史跡に指定さました。
名前 |
頼惟清旧宅 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0846-22-4331 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.city.takehara.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkashogaigakushuka/gyomuannai/9/1/1/2446.html |
評価 |
3.8 |
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