戦国時代のはじめ、三浦氏の新井城を眼前に見下ろす北条方の軍勢がこの辺りに陣を張っていた。
対する新井城では、食糧は尽き、矢は折れ、兵士の士気は下がる一方である。
もはや戦どころの話ではなくなりつつあった。
───もはやこれまで───そう覚悟を決め、新井城から敵陣に切り込んだ一人の男がいた。
その名も三浦荒次郎義意。
三浦道寸の子にして、弱冠ながら身の丈は七尺五寸、今にして2メートル27センチ。
当時としてもかなりの巨漢であるばかりか、筋骨隆々として髭は濃く、八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶりである。
その男が新井城を飛び出すや、また2メートルを越える金棒を振り回して縦横無尽に切り進むからたまらない。
「あの男を斬れ、褒美は思いのままぞ───」叫ぶ武者の叫び声もむなしく、北条方の軍勢はそのあまりのすさまじさに、ただ見ているしかなかった。
・・・が、その中でも豪勇の誉れ高い若武者四人が先陣を切り、荒次郎義意に立ち向かっていった。
しかし、北条の中でも豪勇で知られた四人ですら、たちまち倒されねじふせられ、荒次郎義意の刃はこの四人に向けられた。
すっかり覚悟を決めた四人であったが、「その武者ぶり、まことに天晴れなり。
いまここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら、必ず世の為に役立つであろう」と、その勇敢を惜しんみ、許したと言われている。
この時に、この四人はいつかこの恩に報いようと固く心に誓ったのであった。
しかし、それから程なくして、追い詰められた荒次郎義意は自らの首を掻き切って自害。
道寸義同率いる三浦一族は、そろって切りあい、城の崖下の湾に身を投げ、入り江の海水は血と油で真っ赤に染まり、油壺の名の由来となる程であった。
この時の四人は荒次郎義意と道寸義同が死んだ事を知るや、その恩義に報いるときは今と、道寸父子の後を追い自刃してしまった。
この哀話を聞いた村人達は、四人が自刃した地に塚を2つ造り、この若武者四人をねんごろに弔ったと言われている。
往時はこの辺りは雑草が生い茂り、人も馬も近寄ると祟りがあると言われ、近寄るものは誰一人としていなかったという。
しかし、時は流れ、近くには住宅も立ち並び、戦場であったことを偲ぶよすがも無いが、この義士塚からは昔のまま新井城を望むことができ、夕日に映える草や木々にも、何か人の世の哀れさが感じられるのである。
名前 |
義士塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
ここ義士塚は、戦国武将三浦道寸義同公が、北条早雲との戦いで、戦死した兵士を葬った場所で、古墳みたいになっています。
二つあリます。
とても良かったです。