名前 |
豊後橋址 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
観月橋南詰、株式会社吉川商店の敷地、北西角に案内板が立っています。
以下、案内板の記述を転記します。
この地から南方には巨椋池と呼ばれる水域面積が約七九四ヘクタールにも及ぶ池があった。
巨椋池の北部には多くの州島が形成され、蓮見や月見の景勝地として人々に愛された。
現在に残る向島や槙島などの地名はその名残である。
豊臣秀吉は天下統一を果たした後、伏見指月(現在の桃山町泰長老付近)に築城した。
この築城を契機として、宇治橋下流で巨椋池に流れ込んでいた宇治川を分離し、伏見城城下までの流路を形成する槙島堤と巨椋池を伏見から小倉に縦断する小倉堤という巨椋池内の州島を囲む堤防を築いた。
この堤に囲まれた州島と伏見を繋いだのが豊後橋である。
豊後橋は、安土桃山時代(一五九四年)に豊臣秀吉が豊後国大名 大友吉統に命じて架橋させた長さ約二百メートルの橋である。
架橋を急ぐため宇治橋を移築したとされる。
槙島堤と小倉堤の起点であり、伏見と大和を繋ぐ交通の要衝として、江戸時代には幕府直轄で管理がなされた公儀橋であったが、幕末に鳥羽伏見の戦いで消失した。
同地に明治六年新橋が完成した際、月見の名勝地に因み観月橋と名付けられ、現在に至っている。
京都市桃山時代に太閤秀吉が築かせた堤防、槇島堤と小倉堤。
その槇島堤の西端と小倉堤の北端が交わる場所。
それがここなのです。