地味に建っている。
北条顕時・金沢貞顕の墓 / / .
地味に建っている。
従来は向かって右の五輪塔が貞顕(さだあき)、左の五輪塔が顕時(あきとき)の墓とされてきたが、1935年に右の五輪塔から青磁壷(せいじつぼ)が発見され、更に五輪塔の様式等から、右の五輪塔が顕時(あきとき)、左の五輪塔が貞顕(さだあき)で南北朝の供養塔と確認されました。
墓地の管理門柱には発見以前の表記になっています。
北条顕時 1248~1301(ほうじょうあきとき)は、北条実時の子。
幕府では、引付衆や評定衆を歴任。
霜月騒動(しもつきそうどう)で一時政界を引退し、その間、禅に傾倒し、五山版のさきがけとなる。
金沢貞顕 1278~1333(かなさわさだあき)別名:北条貞顕は、北条顕時の子。
六波羅探題を務めたのち、第十五代執権を務めている。
北条実時が創設した「金沢文庫」を国内屈指の武家の文庫に創りあげるとともに、称名寺の伽藍や浄土式庭園の整備を行い、称名寺の最盛期を築きあげた。
1333年(元弘3年)、新田義貞の鎌倉攻めによって、北条高時らとともに「東勝寺やぐら」で自刃(じじん)した。
結果、鎌倉幕府はここで終焉となった。
名前 |
北条顕時・金沢貞顕の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
五輪塔です。
墓ではないですね。
鎌倉時代から残っているにしてはかなり良いと状態のようです。
綺麗に残してあるもんですね。
素晴らしい。
御供養様です!