松山藩酒井家御廟所の特徴
名前 |
松山藩酒井家御廟所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
徳川四天王の筆頭と恐れられた「酒井忠次」の嫡子・家次は天正十八年(1590)徳川家康の関東入部に伴って下総国印旛郡臼井(現佐倉市)に3万石の大名として取り立てられました。
その後、上州高崎藩、越後高田藩、信州松代藩への転封を経て、元和八年(1622)家次の嫡子・忠勝が10万石から13万8千石に加増され庄内藩初代藩主となりました。
出羽松山藩の始祖・忠恒は忠勝の三男になります。
正保四年(1647)宗家から2万石を分知され「松山藩」初代藩主となりました。
後継ぎ不在による「御家断絶」を防ぐために分家を設ける事は、この時代の一種の「保険」だったようです。