ソリ持っていけば滑れるとこあります、滑って楽しんで...
ここは遊び場として最高でした!4箇所大きな古墳があり、どの古墳も勾配が急で外堀もあり、登り下りだけでも楽しめました。
ヒップスライダー持って来てたらかなり楽しめます。
草が付くので、セーターやフリースなどは草まみれになるので要注意です。
石室が見れる所もありましたが、雰囲気がありビビって入れず、、なかなか見れる機会ないので、見とけば良かったと後悔しています、、、隣にあるキャンプ場、道の駅にも歩いて行けます。
1時間程の滞在でしたが、遊び道具があればもっと楽しめたと思います。
近くに来られたら是非寄って欲しい場所です。
菊水インターからすぐ。
中学受験のテキストなどにも名前が出てくる、有名な大きな古墳です。
ドアを開けるとガラス越しに石室が観れます。
金象嵌で文字の刻まれた国宝刀剣が発見された古墳。
東京国立博物館でも一際目立つ展示のひとつになってます。
古墳内部に入ることができ立派な長持型石棺を見学することができました。
古墳好きならば必ず知ってる古墳のひとつですよね。
扉を開けて古墳の内部を見学することができます。
江田船山古墳は、日本の熊本県玉名郡和水町に位置する前方後円墳で、清原古墳群の中で最古・最大の古墳です。
この古墳は、5世紀末から6世紀初頭に築造され、墳丘長は62メートルあります。
江田船山古墳から出土した鉄刀には、75文字の銀象嵌銘が刻まれています。
この銘文には「獲□□□鹵大王」という表現があり、これは「ワカタケル大王」と読むことができます。
この「ワカタケル大王」は、第21代の雄略天皇に比定されています。
さらに、同じ「ワカタケル大王」の名前が刻まれた鉄剣が埼玉県の稲荷山古墳からも出土しています。
これらの事実は、雄略天皇が在位した5世紀後半に、ヤマト王権の勢力が関東から九州まで及んでいたことを示しています。
隣の肥後民家村(無料)の和水町歴史民俗資料館で遺物の複製品を見学することができます。
資料館の見学もオススメですよ。
清原古墳群の中で最も古く最も大きい前方後円墳が江田船山古墳です。
5世紀後半の築造と考えられています。
古墳の全長は62m。
古墳は大きな周濠を持っています。
古墳からは豊富な副葬品が出土しています。
出土品の大部分は東京国立博物館に所蔵され、1965年に国宝に指定されています。
とくに75文字の銘文が刻まれた銀錯銘大刀(ぎんさくめいたち)と呼ばれる直刀は、埼玉県のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣とともに歴史の教科書に登場する有名な太刀です。
古墳の出土品はこの銀錯銘大刀のほか、刀剣類、銅鏡6面、冠帽類、耳飾類、玉類、武具類、馬具類、鉄鏃類、土器類など92点に及びます。
また、古墳の周りには、短甲を着けた武人の石人が配置されていたようです。
東京国立博物館でも目立つ展示物です。
必見の価値があります。
教科書掲載の古墳です。
公園に整備されていますので、くつろげる場所です。
駐車場も複数あり、駐車台数も多いのでとても利用しやすいです。
お昼頃は営業マンの休憩所になっているようです。
発掘当初は、わが国で最初の漢字使用例とされた国宝「銀象嵌銘大刀」の出土で有名な古墳だそうす。
75の漢字で記された文字は、「大王の恩を得て、長寿で子孫が絶えることなく続き、自分の領地を失うことがない」ことを約束する文章だったことが判明しています。
古墳の廻り一帯は、和水町により「肥後民家村」として歴史公園となっています。
江田船山古墳から奥に進むと入り口が見えます。
各地からの民家を移築したり、民俗遺構を移転したりして一大古代村が出現している。
春は景色が良く芝生も綺麗です。
芝生もいいし、桜も見れて、孫君も大満足でした、ちっちゃいけど、ソリ持っていけば滑れるとこあります、滑って楽しんでました。
噂によると日本最古の古墳という話も広大な芝生の広場に古墳が無料で楽しめます綺麗に整備されていて散歩にも最高船山古墳は石室も拝める珍しい場所です。
とても綺麗に整備されていました。
児童公園としても訪問する価値は有ります。
獲○○○鹵大王から鉄剣をもらった人の墓。
教科書でも有名な遺跡。
獲○○○鹵大王は埼玉の稲荷山古墳出土鉄剣の象嵌から、欠落した部分の文字が確認され、獲加多支鹵大王であることが判明。
それにより、古事記で大長谷若建命(オオハツセワカタケルノミコト)と記されている雄略天皇が同一人物であるとされた。
また、5世紀後半に南宋で書かれた『宋書』の倭王「武」とも同一視されているのだが、武は日本の古来の読み方をすると「タケル」だからとのこと。
※ただし、倭の五王(讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略)の解釈については、宋書や記紀を比較すると色々と矛盾があるようで、これを否定する説もある。
とはいえ、この鉄剣の出土は奈良の大和朝廷の権力が熊本に及んでいたことを証明するというのは教科書のとおりだろう。
被葬者はムリテという人物であることがわかっているようだ。
この古墳は謎の遺跡トンカラリンにもほど近く、トンカラリンを作った部族の人物だったのだろう。
一説にトンカラリンは邪馬台国の遺跡ともいわれているので、ムリテは卑弥呼の末裔だったりしてね。
公園が整備されており子供連れにも良い感じです。
併設の道の駅でお弁当も売ってます。
隣の民家村も面白いですよ。
綺麗に整備されています。
山林を分け入って行くような事もなく公園化されていますので特に古墳に興味ない方でも散歩がてらに良いのでは。
■江田船山古墳 歴史の教科書に掲載され、なじみのある方も多いかと思います。
92件の出土品は、そのすべてが国宝であり、特に、日本最古級の文章が刻まれている銀象嵌銘大刀は、当時の地方豪族の権力を示しており、高く評価されています。
古墳を中心とした古墳公園では花見やピクニック、お昼寝など多くの方が訪れる自然豊かな公園となっています。
江田船山古墳の石室は、自由にどなたでも見学することができます。
■墳丘 規模は、墳丘62m、後円部直径41m、後円部高さ10m、前方部幅40m、前方部高さ7.5mの前方後円墳です。
造り出しが、左右の括れ部付近にあり、右造り出しの突端部の長さ8m、幅5m。
左造り出しの突端部の長さ8m、幅3mです。
墳丘の周囲には幅7.5~13mの周溝が巡っていますので、周溝を含めた全長は約77mとなり、清原古墳群に現存する古墳の中で一番大きい古墳です。
築造年代は出土遺物からみて5世紀後半と推定されます。
■石棺埋葬施設は、後円部のほぼ中央に阿蘇凝灰岩の切石を組み合わせた横口式家形石棺(長さ2.2m、幅1.1m、高さ1.45m)で、入口の両側に2枚の切石を並べ羨道となっています。
また、石棺内部や縄掛突起の一部などに朱色の塗料が残っており、築造時期には石棺全体を朱色に塗っていたことが想像できます。
■出土遺物 明治6(1873)年に地元(江田村)の池田佐十が、夢のお告げにより丘を掘ったところ石棺を発掘し、古墳であると発見されました。
池田佐十は数多くの貴重で豪華な遺物を発見し補完していました。
すぐに国が一括して買い上げ、出土品92点は昭和40年に国宝に指定されました。
現在、東京国立博物館に展示保管されています。
遺物の内容は、75文字の銘をもつ銀象嵌銘大刀などの刀剣類、銅鏡6面、冠帽類、耳飾類、玉類、武具類、馬具類、鉄鏃類、土器類など92件に及ぶ豪華なものが出土しています。
中国や朝鮮半島系の遺物も多く含み、広域的な交流を行っていたことが推測できます。
■銀象嵌銘大刀の銘文 「台(治)天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无□(利)弖、八月中、用大鐵釜、并四尺廷刀、八十練、□(九)十振、三寸上好□(刊)刀、服此刀者、長寿、子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者名伊太□(和)、書者張安也」※説明「天下を治めていた獲加多支鹵大王(雄略天皇456~479年)の世に、典曹(役所の仕事)に奉事していた人の名前は无利弖(ムリテ)。
八月中、大鉄釜を使って、四尺(1m強)の刀を作った。
刀は練りに練り、打ちに打った立派な刀である。
この刀を持つ者は、長寿して子孫も繁栄し、さらにその治めている土地や財産は失わない。
刀を作った者は伊太和、文字を書いた者は張安」なごみツーリズム(和水町観光案内システム))
かなり小さい頃行った時、竪穴式住居のようなものがあった記憶があります!記憶に残るくらい、楽しかった。
いい所に立地しててええわー。
散歩しながら古代ロマンを味わえます。
石棺を見る事が出来ます。
肥後古代の森といえば江田船山古墳である。
清原(せいばる)古墳群中最大、最古と言える。
特筆すべきはもうご存じであろうが銀象嵌銘鉄刀や冠などの豊富な遺物出土である。
全長62m、妻入横口家形石棺を直葬、埴輪も検出、須恵器等、五世紀末の築造とみられている。
これら三基(江田船山、虚空蔵、塚坊主)の古墳は全て前方後円墳で、五世紀末から六世紀半ばの築造で虚空蔵、船山、塚坊主の順となる。
素晴らしい所なので是非ぜひ訪れて頂きたい。
心地よい風が報せる春便り。
名前 |
江田船山古墳 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0968-34-3047 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
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自然に恵まれ神秘的で景色がよく散歩するのによく気分転換にいいからです✨