極楽寺坂切通は、鎌倉七口の切通のひとつ。
91.極楽寺坂の石碑アクセス:江ノ電長谷駅より徒歩5分。
おすすめコース:鎌倉駅~長谷駅~鎌倉大仏~長谷寺~御霊神社~”力餅屋”~極楽寺坂~導地蔵~極楽寺~極楽寺駅~稲村ケ崎駅~稲村ケ崎公園~稲村ケ崎駅~江の島駅~江の島~江の島駅~鎌倉駅鎌倉と外部を結ぶ特に重要な要路として、鎌倉七口と呼ばれる「亀ヶ谷坂切通」「化粧坂切通」「巨福呂坂切通」「大仏切通切通」「極楽寺切通」「朝夷奈切通」「名越切通」が存在しました。
唱歌『鎌倉』は、作詞:芳賀矢一、作曲:不詳、大正3年(1914)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。
歌詞では、鎌倉大仏や稲村ヶ崎、鶴岡八幡宮や静御前など、鎌倉の観光名所や歴史上の人物が取り上げられ、鎌倉の歴史観光ガイドブックのようなご当地ソングとなっている。
歌詞の1番目は、「七里ヶ浜の磯づたい 稲村ヶ崎名将の 剣投ぜし古戦場」2番目は、「極楽寺坂越え行けば 長谷観音の堂近く 露坐の大仏おわします」とあります。
「極楽寺坂」の石碑は、長谷寺側の上り口の右側にあります。
石碑には、下記の内容が刻まれています。
<碑文の説明>「ここは昔は山々が重なっていた所でしたが、極楽寺を開いた僧の忍性(にんじょう)が一本の路を切り開いたと伝えられています。
その極楽寺切通(きりどうし)と言うのはこの道のことです。
1333年に新田軍が鎌倉へ攻め入った時、その軍の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)と江田行義(えだゆきよし)がこの道を進行して行きました。
それを鎌倉軍の大将大仏貞直(おさらぎさだなお)は、この坂に陣をしいて相戦った場所であります。
」極楽寺坂の開削時期は正確にはわからないが、鎌倉時代の後期であることは確かである。
元弘3年(1333)に鎌倉攻めを行った新田義貞はこの坂をめぐって北条軍と大激戦になり、多くの戦死者を出したが破れなかった。
そこで義貞は稲村ヶ崎に回って、そこを突破し、鎌倉に入った。
執権北条高時は自害し、鎌倉幕府は滅亡した。
稲村ケ崎駅から極楽寺駅よりに少し歩いて戻ると、「十一人塚」の石碑があります。
大将大館宗氏(おおだてむねうじ)ら主従11名戦死した供養塔です。
現在、車が通る現道は、明治時代以降に掘り下げられた新道で、旧道は現在よりもずっと高いところを通っていた。
これは現在の成就院の参道であったかも知れない。
名前 |
極楽寺坂の石碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
極楽寺坂切通は、鎌倉七口の切通のひとつ。