財田小学校のすぐ北側にある小高い山が橘城跡(天王城...
城主がコロコロ変わった戦後時代に(さぬき・たちばな・じょう・あと)築城は、源平合戦の頃(平安時代末期)に讃岐大平家の祖先の近藤国平(讃岐の国主👈県知事の四男)の大平国盛の一族が館を構えたのが始まりで戦国時代には、巨大な城郭へ変貌した讃岐・矢野家(阿波矢野家の分家)阿波三好家に滅ぼされる👈一族は、生き残る讃岐・小笠原家(信濃小笠原家の分家)分家の三好家を敗走させて小笠原家が城主と成った阿波・三好家(信濃小笠原家の分家)長曽我部家に三好家が従い大平国祐・大平国秀の兄弟を攻めたが三好家を撃退讃岐・大平家(駿河大平家・遠江大平家・三河大平家・土佐大平家・伊予大平家・阿波大平家などと同族)長曽我部家が豊臣家に従い豊臣家配下の仙石家の支配下に讃岐の全武将は、仙石家に従った時に再び大平家が城主と成ったが徳川家康の命令で完全に天守閣は、破壊され神社として生まれ変わった大平家は、高松藩(松平家)・丸亀藩(京極本家)・多度津藩(京極分家)に大平国祐と大平国秀の血統の人々が参政として従った🌠武士達が入る前は、縄文・弥生の遺跡もあるとかすごい貴重な場所大平家は、2回👈平安時代末期と戦国時代末期に城主と成る(築城一族が幕引き)徳川家康は、地方の武士を恐れていた豊臣家に恩がある者が多かったから🌠歴代の城主が増築を繰り返し、縦では、なく横に広い巨大城郭があったとされる縦に伸びるのが主流の戦国時代の城郭なのにそれも徳川家康の命令で破壊された土佐式が採用されて、土佐大平家の影響とか。
名前 |
橘城跡(天王城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.5 |
財田小学校のすぐ北側にある小高い山が橘城跡(天王城跡)です。
駐車場は財田町運動公園のを利用しても良いとの事でした。
小学校の南側に遊歩道が有り、それを登るとあずまやが有ります。
そこを右側に登ると城跡(俵神社)への道に合流します。
中世、戦国時代を通じて大平氏の居城でありましたが、後に矢野氏の居城と成りました。
山頂の主郭跡には大平氏を祀る俵神社が有ります。
因みに近くの伊舎那院には大平氏の供養塔と云われている石造りの宝塔が有ります。
頂上には東西約40m、南北50mの規模の主郭跡で東側に約5mの切り岸状段差の下に細長い郭が主郭を囲こむように帯郭があり、西側には自然な急斜面をなしています。
その両端には突出した曲輪を設け、間道が連絡路の役目をしています。
主郭には空堀、土塁を廻らし東西隅に一段高い小郭が配置されています。
これは櫓台と考えられています。
自然地形を巧みに利用し曲輪、空堀を配し頂上部の主郭には周囲を囲いこむ土塁が築かれ中世の山城の特徴を大変良く残っています。
平成元年に発掘調査が行われています。
文章は財田町の設置している説明板を参考にさせて頂きました。