詳しい人に譲るとして、こんなところに、このような形...
天園から明王院に向かう途中に立ち寄りました。
ハイキングコースから外れた尾根づたいの道を登ると直ぐ分かります!
土地の人々は、古くからこの山頂を 「塔の峰」とも呼んでいたそうです。
誰も知らない鎌倉路 御所見直好 著 より引用そしてふと右後方(西北方)を見あげると、山頂のシイの老樹の下に、凝灰岩石(鎌倉石) でつくった高さ170センチ、第一層の幅60センチばかりの、風化しながらもかなり原型を 保った五層塔が建っている。
これが大江広元の墓である。
土地の人々は、古くからこの山頂を 「塔の峰」とも呼んでいる。
(中略)大江広元の墓といえば、ここのほかにもうひとつ大蔵山の頼朝の墓所から東へ70メートルばかり離れた、草深い雑木の茂みの中の山腹にもある。
向かって右に島津忠久、左に 毛利季光の墓を配して、広元の墓塔は中央のそれである、と、普通は呼んでいるが、しかしここは幕末になって、長州藩の村田晴風が墓石を探しにきて、毛利家先祖の墓所はここだと定めた、いわば自称の祖廟ともいえるもので、根拠はきわめて乏しく、あるいは二代執権北条義時の墓所という説もある。
そこでこの塔の五層塔だが、ここはまた古くから広元の墓として、里人の間に伝えられてきた。
やはり幕末には、執拗なまでの調査をうけたが、当時、権力者の振舞いに恐れをなしていた里人たちは、いらぬ節介はやくまいと、みな逃げた。
つまりこの塔の峰を否定されたあげくに決定されたのが大蔵山、という 経緯がある。
それに、ここから近い明王院の先の二ツ橋に広元邸址と伝えられる土地があり、またこの塔は鎌倉期の五層塔としては確かなようでもある。
なにより深想な広元が、戦火を避けるために、わざわざ山深い忘れられたようなこの峰に、自らの墓を定めていた。
ともとれる。
そう考えてくると、むしろ大蔵山よりもこちらの方が、より真実性が膨らんでくる。
が、今では根拠のある墓が見すぼらしくて、根拠に乏しい墓が立派なことから、 この判断をますます難かしくしているようである。
今日もまた、樹々を渡る風はと して、栄枯のあわれを告げている。
冷徹な賢者も、人知れず層塔の石に守られて眠っているのである。
天園ハイキングコースを明王院の横から入った所から。
まず、ハイキングコースの入口が分かりづらく、たまたま近くにいた地元の方に、崖の方からだと教えて頂き、入る事が出来ました。
こちらのお墓ですが、ハイキングコースから途中、分岐したところに有ります。
右側がハイキングコースで瑞泉寺方面に至る道で、左側がお墓へと至る道。
江戸時代に子孫の毛利氏が建てた墓も立派ですが、こちらの方が、風化した墓石の感じ等、とても雰囲気があります。
天園ハイキングコースを瑞泉寺ではなく明王院口へ向かう途上にあります。
この明王院口へ向かうコースはマイナーで、道筋も細く人通りも少ないです。
この「伝大江広本の墓」は訪問することをかなり意識して道筋から上へ登る枝分かれを探しながらたどり着きました。
瑞泉寺からの分岐から向かって右側斜面に入って行くような形になります。
(明王院口から登っていった方が気がつき易いかも・・・・)銘板もなにもない上に、ひっそりと山中に立ち、多くの人の記憶からは忘れられつつあることが、もの寂しさを誘い魅力があるように思われました。
名前 |
伝 大江広元の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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なぜ、伝なのかは、詳しい人に譲るとして、こんなところに、このような形でお墓がある事自体不思議です。
形も珍しいかも。
大江広元さんのお墓と思いお参りしました。