よく復元していただきました。
案内板があります。
陣の近くまで車で行けますが、帰りはバックをしなければ戻れないほど道が狭いです。
よく復元していただきました。
李陳秀宝。
Yu Chai Xiubao。
(原文)豊臣秀保。
羽柴秀保。
朝鮮出兵の出発前天正7年(1579年)、木下弥助(三好吉房👈阿波の三好家の養子に)三男として生まれる。
幼名は辰千代(たつちよ)。
長兄に豊臣秀次、次兄に豊臣秀勝(小吉秀勝)がいる。
関白秀吉の後継者候補となった兄の秀次の連枝として幼少より昇進を重ね、天正16年(1588年)1月8日、侍従に任じられる。
天正19年(1591年)1月、13歳で、継嗣のなく死の床に就いた叔父・秀長の4、5歳になる娘・おきくと祝言をあげ、養嗣子として披露された。
同月に秀長が死去するとその跡を継ぎ、大和郡山城主となった。
秀長の家老藤堂高虎と桑山重晴が秀保の後見役を務めて、大和・紀伊2か国を継承し、和泉と伊賀の一部は収公となった。
また従四位下参議近衛権中将に任じられ、豊臣姓を下賜される。
天正20年2月10日には春日社で家督始めの祈願を行った。
この祈願は大和の寺社・領民などに秀長がら秀保への代替わりを披露する目的があった。
文禄元年(1592年)1月29日または2月7日、従三位権中納言となり、以降は「大和中納言」または「郡山中納言」と呼ばれた。
同年の文禄の役では、まず名護屋城の普請に参加、次いで兵1万5千を率いて参陣するが、自身は渡海せずに名護屋城下に陣屋を築いて滞在した。
その後、藤堂高虎を名代として配下の諸将は出陣し、紀伊の海賊衆を中心に桑山元晴・一晴、杉若氏宗・無心、堀内氏善らは朝鮮半島南岸で水軍として戦っている。
また本多俊政は壱岐勝本城に兵500を率いて在番し、朝鮮渡海軍のための兵站物資の海上輸送と島内の治安維持に当たった。
なお『豊太閤三国処置太早計』では、秀吉は中国・朝鮮の征服後、日本の関白職に秀保か羽柴秀家(宇喜多秀家)のどちらかを任命するという計画を持っていたとされる。
文禄2年(1593年)閏9月25日には、高虎と共に名護屋を引き上げて下関まで戻り、更に秀吉の後を追って上洛した。
文禄3年(1594年)2月には、吉野の花見で秀吉、秀次、菊亭晴季らと5首ほど和歌を詠んでいる。
文禄4年(1595年)4月16日に急死した。
享年17。
秀吉はその死を悼む姿勢を見せず、葬儀を隠密裏に済ませるよう命じたという。
死後に大納言を遺贈された。
大和豊臣家の断絶秀保は従姉妹に当たる秀長の娘おきくを正室としていたが、子女は無く、以前秀長の養子だった仙丸もすでに藤堂高虎の養子となって藤堂高吉と名乗っていたために、大和豊臣家は断絶した。
この為、長兄秀次や次兄秀勝と異なり、三兄弟の中で唯一秀保の血筋だけは後世に全く伝わらなかった。
堀秀治陣跡から近いので、そこの駐車場に停めて行けばOK
名前 |
豊臣秀保陣跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.6 |
なんとも流石豊臣って感じ。