美しい新府城跡で歴史散策。
新府城 西堀跡の特徴
新府城跡は、整備された案内板があり、見学しやすいです。
天然の要害として築かれた新府城は、標高526mの本丸が魅力です。
七里岩台地に位置し、二つの河川が外堀となる歴史的な名所です。
新府城跡の東側を塩川(標高387m三之藏あたり)に、西側を釜無川(標高398m城のすぐ横)に、侵食された七里(約28km)岩台地(しちりいわだいち)の上の標高526m(本丸)に築かれた新府城(標高差約230mほど)は、急な崖を城壁に、その東西を南に流れるこの二つの河川を外堀にした天然の要害である。
この城に適した地形を勝頼は守りきれなかった。
西側に流れる釜無川の西岸と御勅使川(みだいがわ)以北地域一帯は、武川衆(むかわしゅう)と呼ばれる地域武士団の本拠地(武川筋)である。
その一角に位置する韮崎市神山町武田は、平安時代末期に甲斐源氏武田氏の祖先である武田信義が館を構えたところもで、新府城とは釜無川を挟んでのすぐ近くの位置で、この高台に城を建てた理由の一つが分かる。
ここ新府城は、武田氏最後の城。
武田勝頼が築いた戦国時代末期の城。
築城するも、織田勢に攻められわずか68日で勝頼自らが火を放った悲運の城。
釜無川を直下に見下ろす断崖の独立丘陵上に石垣を用いず、土塁と堀により築城されている。
武田氏を代表する甲州流築城術の集大成となる城である。
武田の城作りの上手さと治水事業の腕前の高さは、他の諸大名には真似できないほどのものがある。
従える武将たちの凄腕。
なのに負け、そして天目山へ 敗走して 行く。
頼りにしているはずの武将たちが次々と裏切る。
右肩上がりの地領を持った戦国大名でなければ最後は見捨てられる。
現在の新興企業に似ていると感じる。
最後は、徳川家康が天下を取った。
彼は石川数正に裏切られた。
しかし勝頼の場合は、主君を裏切った武将が多すぎる。
家康との高天神城の戦いに敗れた後に、離反者が増えている。
諏訪へ通じる甲斐と信濃の国境地域の守護に当たった武川衆(むかわしゅう)は、徳川家康の配下に属し家康の本陣となった新府城に対して、若神子城以北に陣を構えた北条氏直の軍を最前戦で退治し戦功をあげている。
この武川衆の歴史を追っていけばまたおもしろいさが増していくだろう。
家康の三方原で負けた時の顔をこの Facebook での私の顔をにしているが、家康ばかりを追いかけるよりも負けた 武田を見てるほうが 人間らしく興味を引き面白みがある。
よく整備されていて、保存修復され視覚的にも分かりやすい新府城の搦手となつている。
きれいな場所です!
名前 |
新府城 西堀跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0551-22-1991 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
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西堀周辺は整備され案内板もきちんとあり見学しやすいです。