半日も天下分け目の大合戦を眺めたんだよね!
小早川秀秋が布陣した、関ヶ原の松尾山を散策登山してきました。
松尾山城は、大永年間(1521~1528)に近江の浅井氏の家臣の堀氏が居城した後、元亀元年(1570)に浅井長政が江濃国境の境目の城(長亭軒之城)として、樋口直房を入れ置いたことが「編照山文庫所蔵文庫」に記されています。
標高293mの松尾山には、西尾張最大級の山城として、曲輪、堀切、土塁など多くの遺構がほぼ完存しているそうです。
石田三成は合戦前の8月頃、大垣城主伊藤盛正に命じ城を改修し、西軍の総大将、毛利輝元を招き入れようとしました。
しかし、輝元は出陣せず、合戦前日に小早川隊が布陣しました。
関ヶ原古戦場を一望できる主郭を含め、七つの曲輪が存在し、その規模は、東西400m、南北250mにもわたります。
登山口から、約1時間位山道を登ります。
鳥のさえずりの中、整備された登山道なので安心して登れます。
自分の足で登った山頂からの眺めは良く、風が吹き抜ける場所での、お茶、おにぎりは、何にも勝る味わいでした。
道中、自生している藤の花なども咲いていて楽しく散策できました。
関ヶ原の戦いで勝敗の鍵を大きく握った武将小早川秀秋(一万五千の大軍)の陣があった城跡。
立派な遊歩道が整備されていて、293mの山頂からは関ヶ原の古戦場が一望できます。
☆関ヶ原の南にある標高293mの松尾山⛰️単なる陣城と思い登城も、中々本格的な複数の曲輪を配置した中世の城郭で驚きました😲関ヶ原の戦いの際は「小早川秀秋」本陣であったろう松尾山山頂部、思いの外、狭い曲輪で30m四方位でしょうか⁉️本郭に設置された松尾山城の「縄張図」は参考に成りました、本郭から各方面に延びる尾根上に数多くの段々腰曲輪、一時的に即席では造れない規模、今は北東側と南側からの登城路2本の山道、途中に曲輪・土塁・切岸・虎口・土橋・馬出などが見られて楽しい、「縄張図」見てから下る際に再度確認👀1570年頃元々は北近江「浅井長政」方の織田信長に対する出城、家臣/樋口三郎兵衛が入るも後に織田信長に寝返り、更に織田家臣/西美濃四人衆の一人「不破光治」入城、不破光治が越前に転封し廃城❗️1600年関ヶ原の戦いで再利用、多分、再利用時に新しく普請したんでしょうね、小早川秀秋隊15000が布陣出来るように‼️思ったのは、関ヶ原から少し離れた奥まった西軍・東軍のどの武将よりも遥かに高い山頂が本陣、兵15000は一斉にどうやって戦場へ駆け降りたのでしょうか、傍観して日和見していた19歳の青年武将『小早川秀秋』🐎
2022年7月23日に行ってきました。
行き方。
松尾山城跡から東北の方角にP有りGoogleナビで松尾山登山口駐車場でセットすると行けます。
駐車場専用駐車場有り。
駐車場から砂利道を道なりに登って行くと案内が有ります。
時間は40分から50分ぐらいかな、アップダウンも有るので登山靴で行くのをお勧めします。
歴史背景ここからはネット引用です。
松尾山城は「関ケ原の戦い」で東軍に寝返った小早川秀秋が布陣した城として有名です。
美濃・近江の両方を一望でき、東山道と伊勢街道・北国街道が通じる典型的な境目の城です。
戦国時代には、浅井長政が織田信長との同盟関係を解消したことにともない、長政は樋口直房に美濃国境である松尾山を占拠させ城を修築させました。
しかし直房は竹中半兵衛の調略により信長に降り、その後は信長の家臣である不破光治が城を守りました。
1579年(天正7年)には浅井家滅亡によって、その役目を終えていったん廃城となっていましたが、「関ケ原の戦い」で石田三成の要請を受けた大垣城主・伊藤盛正が松尾山城を修築しています。
現在、城址はよく整備されており、山頂までのぼることができます。
土塁や枡形虎口などの遺構も確認することができます。
北側駐車場から登山25分ほどで登れました。
関ヶ原の戦い当時の布陣が一望できる感慨深い山城でした。
5年ぶりかな?前回は雪中行軍となったので今回は雪の無いのを確認してリベンジした。
さすがに素晴らしい!関ケ原では最大の山城です。
登る途中にある山ノ神も曲輪状に思える。
トイレは相変わらず綺麗とは言い難いが使用できます。
トイレが馬だし状の曲輪にあるというのが…下山は南側を周回しました。
林道、登山道よく整備されてます。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
いつかは松尾山に登ってみたいと思っていましたが、実現しました。
北口の登山口駐車場で40分ほどかかるとの表示があり、そうはいっても30分ぐらいで大丈夫と思っていましたが、40分しっかりかかりました。
ただそれほど大変ではなく、いい汗をかいて登ることができました。
眺めは関ケ原を一望でき、雄大な伊吹山もきれいでした。
関ケ原合戦の折、当時19歳の小早川秀秋は、この風景をみて何を考えていたのでしうょうか。
そんな若者で天下を左右する決断は重すぎるのではと同情してしまいました。
本来、ここは城跡で、その名残の土塁跡や枡形虎口跡もありました。
ただそんなに広くなく、小早川勢は13000人だったと言われていますが、山上はそれほど広くなく、そんな大軍はどこにいたんだろうと、疑問に思いました。
帰り道、同じ道を戻れば良かったのですが、違う道に挑戦し、迷ってしまいました。
山の中をさまようこと小一時間、「遭難」という文字が頭をよぎりました。
仕方がないので、沢に降りて小川伝いに山の南側へ降り道路に出ました。
そのため松尾山をぐるっと一周することとなり、5km以上歩くこととなりましたが、さすが関ケ原、途中いろんな史跡があり、足が疲れましたが、それはそれで楽しめました。
自分は山の北側の駐車場から登ったが、南側からのルートもあるようです。
40分ほどかかりますが、登山道はよく整備されているので、きつくないです。
山頂から関ケ原盆地がよく見渡せる。
本丸の土塁、南側の虎口や土橋がよく残っている。
元々は、この地の国人であった不破氏の城で、関ヶ原の戦いの際に、豊臣秀頼や毛利輝元がはいるため、西軍が整備した城跡です。
しかし皮肉なことに、この城に入った小早川秀秋が裏切り、山を駆け下りて大谷吉継陣を突き崩し、西軍敗北のきっかけとなった城でもあります。
北側の駐車場にバイクを駐め、途中の曲輪の跡を見ながら比高190メートルの本丸跡は削平され、小早川家の旗である『白地に黒の違い鎌』の旗が風にたなびき、関ヶ原を一望することができます。
本丸跡には土塁が残り、東屋やトイレもあり、歴史マニアなら一度は訪れておかねばならない城跡です。
麓で猿と鉢合わせ❗山頂からはなるほど戦場が良く見渡せる‼️土塁や切り岸や曲輪と良く残ってる(・∀・)白い小早川の登り旗は麓での散策に役に立ちます(・∀・)👍
令和3年2月23日関ヶ原観光ガイドにも掲載されているモデルコースの行軍コースを逆向きに歩いたのですが井上神社から南の名神高速をくぐるところが工事中で回り道する必要があります。
関ヶ原古戦場!小早川秀秋公が陣を構え西軍から東軍への裏切りを決めたところです。
間違いなく日本史を変えた場所で当時の城郭が残っています。
駐車場がありますので麓までは車で、徒歩で小一時間で山頂まで登れます。
史実どおり笹尾山から南宮山まで関ヶ原古戦場を一望出来ます。
ここでの小早川秀秋公の葛藤を想いながらたたずんでいると何とも言えない気持ちになります。
頂上の小屋にノートがありますので当時に想いを馳せ是非、皆様の感じられた事を書かれて下さい。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋が陣を構えたのがこの松尾山である。
陣を構えたのは東軍・西軍の配置が一望できるということもあるが、元々この地には南北朝時代から戦国時代の城である松尾城があり、布陣のさいにその跡を利用したという。
現在も土塁、主曲輪、曲輪などの跡が残る。
松尾山城址は関ケ原町指定史跡となっている。
この山は三つの楽しみがある。
一つ目は、里山の気軽さ。
登山口が町から近く、のんびりとスニーカーで山頂まで40分ぐらいで登れる。
登山道は、はっきりしていて歩きやすく夏でも木陰で暑さを避けられる。
二つ目は、「関ケ原の戦い」で東軍に寝返った小早川秀秋が布陣した山。
ここから合戦場がはっきり見え、両軍の行動、対戦状況が目の前で観察できる絶好の場所だと認識できる。
三つ目は、ここが戦国時代に山城であったこと。
城からは、美濃・近江の両方を一望でき、東山道と伊勢街道・北国街道が通じる典型的な境目の城であった。
山頂あたりでその城跡の遺構を探すのも楽しい。
現在、山頂にあった城跡の曲輪(くるわ)は、よく整備されており土塁や枡形虎口(ますがたこぐち)などの遺構も確認できる。
ベンチに座り伊吹山を眼前に、昼食をとるのも楽しい。
これで下るのももったいない。
この山頂の回りは、多くの曲輪、土塁、堀切、虎口があちらこちらに見ることができる。
沢山のお宝が、雑木林の中にあるのに整備していないのがもったいない。
高学年の夏季研究には適していると思う。
標高293m. さすがに観光地の山城、駐車場、説明板、頂上にベンチと整備されてる。
遺構もたっぷりで 曲輪を取り巻く土塁、桝形のカクカク土塁、切岸、堀切、土橋、竪堀などなど♪\(◎o◎)/隅々まで見ようとしたら けっこう時間がかかるうれしい城跡 εu003dεu003d(*´∀`)♪
名前 |
松尾山城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
関ヶ原全部が見えるんですね~小早川秀秋の家臣達は、半日も天下分け目の大合戦を眺めたんだよね!