幕府の水軍がひかえた南方の海側からは攻めあぐんでい...
歴史資料館の前で出迎えてくれます。
刀を私たちにくれるのではなく、稲村ヶ崎で太刀を海に投じるポーズだったのですね。
世良田の郷土史の勉強になります。
新田義貞は後醍醐天皇の命で鎌倉幕府討幕に向かい山側の巨福呂坂、極楽寺坂、仮粧坂を総攻撃した一方、幕府の水軍がひかえた南方の海側からは攻めあぐんでいました。
新田義貞は稲村ヶ崎で黄金の太刀を投げ入れ龍神に祈願したところ目の前の潮が大きく引き、新田義貞の軍は磯伝いに徒歩で攻め入り討幕に成功したという徒渉伝説を表した像です。
太田市立新田荘歴史資料館左前に有ります。
生品神社前の像と同じポーズで稲村ヶ崎で剣を捧げ両腕を上げているので顔が隠れます。
ここの像は、旧新田町の生品神社の前にあるのと同じ格好&大きさをしています。
資料館の前にあります。
名前 |
新田義貞公像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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太田市立新田荘歴史資料館の前にある新田義貞公の像で、稲村ヶ崎に剣を海に投げて、海の神様にお願いして海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像です。
戦前の新田義貞は忠臣として、評価されていました。
同族の足利尊氏は戦前は朝敵の評価でしたが、今は新田義貞は忠臣に間違いありませんが、私見ですかが、世の中の流れに順応できない、堅物の悲劇の武将ですかな?