山深いが遺構あるし、整備してほしいなぁ。
本丸後は草刈りされて広い空地。
2021年11月、「現代語訳上井覚兼日記」を読んでからの訪問。
歩きやすかったです。
伊東48城の1つで、建武2年(1335年)又は延元元年(1336年)、図師六郎入道隋円·慈円父子によって築城されたと伝わっています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの頃には結果的に東軍対東軍の同士討ちになる宮崎城の戦いが起こっています。
飫肥の伊東祐兵は大阪で病に伏していたものの黒田如水を通じて東軍に味方する事にし、嫡男 祐慶を飫肥に返します。
祐慶の意を受けた伊東家重臣 稲津掃部助重政は西軍とおぼしき高橋領の宮崎城を攻め落としますが、この時点で高橋元種は東軍に寝返っており同士討ちになってしまいました。
その後 重政もその責任を取らされる形で討たれています。
城跡の方は多数の曲輪や登城口があって、登る時はほぼ一緒の道ですが、下りる時は色々な道を通って下りています。
城跡までの道が少し荒れてたけど、上まで上がれる。
城跡を巡るコース図があると助かる。
途中の表示はあったが、城跡の標示は朽ちてしまってた。
台風後でまだ崩落した箇所がある。
石碑がある以外は施設はない。
案内板があるので入り口は分かりやすい。
山深いが遺構あるし、整備してほしいなぁ。
名前 |
宮崎城址 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
宮崎城跡日向伊東氏の伊東四十八城の一つで、島津氏によって伊東氏が衰退した後は島津氏が入城しました。
城は自然の地形を有効に利用し、本丸・野首城・服部城・彦右衛門城・百貫城などの独立した曲輪からなり、船ヶ崎・万願寺・目引・野首の4つの登城口がある。
同じような築城法をとった城として伊東氏の都於郡城がある。
#お城 #城跡 #城 #宮崎県 #宮崎城。