築造時期は5世紀前半と推定。
墳長176.3m、高さ14.6mと九州では最大規模の前方後円墳で、隣の男狭穂塚同様に天皇家の御陵墓参考地に治定されています。
被葬候補者としては木花開耶姫(このはなさくやひめ:瓊瓊杵尊の妃)、髪長媛(かみながひめ:仁徳天皇の妃)などの名前が挙がっています。
現地に行って見てみると木々の間にちょっとした墳丘の盛り上がりを確認するのが精一杯で、全体像はただの森にしか見えません。
宮内庁による木花咲耶姫の陵墓比定地。
九州最大の前方後円墳。
となりの男狭穂塚は夫の ニニギノミコトの陵墓比定地。
考古学的には、どちらも古代日向の豪族の特定人物の墓と推定されているとのこと。
ニニギの命の妻であるコノハナサクヤヒメの墓と古くから言われているとの事。
大きすぎて古墳なのか小高い丘なのかわからない。
しかも木が生えてもはや古墳とは全く思えなかった・・・
毎年、11月、西都古墳祭りは女狭穂塚古墳の前の広場で行われます。
女狭穂塚古墳(めさほづかこふん)墳丘長176.3mの前方後円墳、築造時期は5世紀前半と推定。
宮内庁により陵墓参考地として治定されており、被葬候補者は木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)。
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)を構成する古墳の1つ。
女狭穂塚は九州最大規模の前方後円墳。
男狭穂塚は日本最大規模の帆立貝形古墳。
いずれも被葬者は不明であるが、この時代において日向国とヤマト政権が密接につながっていたことから、この古墳の被葬者もヤマト政権と強い関係を持つ人物であったのかもしれない。
※木花開耶姫(ウィキペディアより)『古事記』『日本書紀』に登場する女神。
神話では、日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。
父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。
オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。
コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。
それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
宮内庁の看板が建っていて、重々しい雰囲気。
この日向地域の首長で最も力を持っていたと推測される墳墓である。
墳長177mの前方後円墳で九州最大の規模を持ち、仲津山古墳(伝仲津媛陵)と同一の規格(周溝と周堤を持ち、括れ部両方に造り出しを持つ)で築造されたことが知られており、五世紀前半の時期の畿内大和政権との強い関係が想像できるものである。
しかし、児屋根塚古墳、大久保塚等の規格は縮小されているものの同一であることも判っている。
この日向地域の盟主ではあったが意外と短期間でその地位が凋落した可能性があるかもしれない。
宮内庁が管理していることはもうお判りであろうが、問題はその被葬者であろう。
ここは譲れない。
「木花開耶姫」これは誰が考えても問題である。
神話の世界から古墳時代が始まった感がある。
ロマン派なのだろうな宮内庁は。
言わずもがな「天孫 瓊瓊杵尊の妃である」
女狭穂塚は、墳長180m、高さ15mの規模を誇り、九州で最大の前方後円墳です。
古来から地元では可愛塚(エノヅカ)と称されてきました。
『日本書紀』神代下巻の「天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)崩(ムアガ)りましぬ。
因(ヨ)りて筑紫(ツクシ)日向(ヒムカ)可愛之山陵(エノミササギ)に葬(ホフ)りまつる。
」にみえる可愛(エノ)山稜の伝承陵墓であるとも伝えられています。
又 児玉實満が1825年に撰述した『笠狭大略記』では、女狭穂塚を「斎殿原同所、開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)御山稜」と記載してあって、男狭穂塚も含め、それぞれ「狭穂山」と記してある。
又同書によると、西都原大地の北の方に、江谷(エタニ)という地名があるが、この江谷は)可愛(エ)を意味すると記されています。
現在も残っている江谷という名称は、あるいは可愛谷(エダニ)から変化した地名であるかもしれない。
(出典 日高正晴著 古代日向の国) その事から、西都原古墳群に存在する311の古墳の中枢となる男狭穂塚は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、女狭穂塚古墳は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の御陵と言い伝えられてきました。
その後、明治時代になり、「日向三代陵は天皇家の祖先に関連がある」ということで、明治28年12月、御陵墓参考地(注)として宮内省の指定を受け、この両塚を含む98,700㎡の地域は、現在、宮内庁の管轄下にあります。
御陵墓参考地とは被葬者は確定できないが皇族(天皇・皇后・皇太后および太皇太后)の墓所の可能性が考えられるところを御陵墓参考地、確定されたところを陵墓として双方とも宮内庁が管理しています。
伝承とは異なり、女狭穂塚古墳は仁徳天皇の妃であったカミナガヒメ、男狭穂塚はその父親である日向国諸県君(現在の宮崎県諸県三郡及び鹿児島県曽於郡の地の豪族。
【紀】諸県君〔もろがたのきみ〕。
名を牛諸井〔ウシモロヰ〕と記す。
)の陵墓である可能性が有力であると言われています。
名前 |
女狭穂塚古墳 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0983-42-0024 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
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以前この場所で蛍が飛んでいたのを見た事有ります。
陸棲の蛍という事でした。