築造時期は5世紀前半と推定。
こちら宮内庁管轄で、見物できないです。
天候にめぐまれて、コスモスも満開できれいでした。
リフレッシュできました。
歴史あふれる絶好の場所(原文)Great place full of history
西都市の誇り。
毎年11月にある西都古墳祭りの時に一般開放されて古墳の前まで行けます。
古くからニニギの命の墓との言い伝えがある。
なお、ニニギの命の墓と言われている可愛山陵として他に2箇所ある。
1つは鹿児島県薩摩川内市宮内町、もう1つは宮崎県延岡市北川町にある可愛山陵である。
また、古事記にはニニギの命の墓については記されていない。
男狭穂塚古墳(おさほづかこふん)墳丘長176mの帆立貝形古墳、築造時期は5世紀前半と推定。
宮内庁により陵墓参考地として治定されており、被葬候補者は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。
西都原古墳群(さいとばるこふんぐん)を構成する古墳の1つ。
男狭穂塚は日本最大規模の帆立貝形古墳。
女狭穂塚は九州最大規模の前方後円墳。
いずれも被葬者は不明であるが、この時代において日向国とヤマト政権が密接につながっていたことから、この古墳の被葬者もヤマト政権と強い関係を持つ人物であったのかもしれない。
※瓊瓊杵尊(ウィキペディアより)『古事記』『日本書紀』に登場する神。
神話では、天照大御神の命により、ニニギノミコトは葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったとのこと。
これを天孫降臨(てんそんこうりん)と呼ぶ。
この降臨の経路の解釈ついては、日向国の高千穂峰に降り吾田国(現在の鹿児島県南さつま市)の長屋の笠狭碕に到達したとする説のほか諸説ある。
日向(ひむか)の歴史はかなり古く、鹿児島県大隅地方もその昔は日向と呼ばれていた。
行政上、日向国が設置されたのは7世紀になる。
※男狭穂塚/女狭穂塚神話では瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)は木花之開耶姫(コノハナノサクヤビメ)を妻としている。
男狭穂塚古墳の西300m程のところに女狭穂塚古墳があるが、女狭穂塚古墳は宮内庁より陵墓参考地として治定されており、被葬候補者は木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)とされている。
女狭穂塚古墳同様に宮内庁管理の陵墓で立ち入ることは出来ない。
帆立貝形古墳で二重の周溝、周堤を持つ。
五世紀前半に築造されたものとみられる。
築造時期は女狭穂塚も同様で、日向地域の異なる首長系列があったものとみられている。
宮内庁が管理していることはもうお判りであろうが、問題はその被葬者であろう。
ここは譲れない。
「瓊瓊杵尊」これは誰が考えても問題である。
神話の世界から古墳時代が始まった感がある。
ロマン派なのだろうな宮内庁は。
瓊瓊杵尊➡彦火火出見尊(山幸彦)➡彦波瀲武鸕草葺不合尊➡神日本磐余彦火火出見尊(神武天皇)となる訳だ。
男狭穂塚は、墳長175m、高さ19mの規模を誇り、国内で最大の帆立貝形古墳です。
古来から地元では可愛塚(エノヅカ)と称されてきました。
『日本書紀』神代下巻の「天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)崩(ムアガ)りましぬ。
因(ヨ)りて筑紫(ツクシ)日向(ヒムカ)可愛之山陵(エノミササギ)に葬(ホフ)りまつる。
」にみえる可愛(エノ)山稜の伝承陵墓であるとも伝えられています。
又 児玉實満が1825年に撰述した『笠狭大略記』では、男狭穂塚を「槵木斎殿 (クシキサイトノハラ) 原、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)御山稜」と記載してあって、女狭穂塚も含め、それぞれ「狭穂山」と記してある。
又同書によると、西都原大地の北の方に、江谷(エタニ)という地名があるが、この江谷は)可愛(エ)を意味すると記されています。
現在も残っている江谷という名称は、あるいは可愛谷(エダニ)から変化した地名であるかもしれない。
(出典 日高正晴著 古代日向の国) その事から、西都原古墳群に存在する311の古墳の中枢となる男狭穂塚は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、女狭穂塚古墳は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の御陵と言い伝えられてきました。
その後、明治時代になり、「日向三代陵は天皇家の祖先に関連がある」ということで、明治28年12月、御陵墓参考地として宮内省の指定を受け、この両塚を含む98,700㎡の地域は、現在、宮内庁の管轄下にあります。
名前 |
男狭穂塚古墳 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0983-41-0041 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
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満開でした。
とても気持ちいい春の風景ですね。