大友宗麟は戦いには出てきませんでしたが強者の家臣た...
耳川の戦い(高城川合戦)古戦場跡 / / .
天正6年(1578年)日向の国を逐われた伊東義祐の失地回復要請に応えた大友宗麟の軍約4万は島津家の重臣山田新介有信の守る高城(元々の兵力は500程)攻略の為に5つの陣を築いて包囲。
しかし後詰めに来た島津義久軍の伏兵を用いた釣り野伏という策に敗れ、勢力圏であった耳川以北に撤退する際に更に被害を大きくした…というのが合戦の概要です。
現況は県道19号線沿いに「天正6(1578)年高城川合戦場跡」の大きな看板がある以外なんということもない田舎の風景が広がっています。
のどか過ぎて古戦場跡の雰囲気は全くありません。
マーカーがついている場所には案内表示板があって、駐車も可能です。
そこから北に200m程の目の前の山が大友軍本陣跡、西に1km程先に見える山が高城跡です。
島津家久が吊り野伏を見事に成功し、大友軍を敗る❗️
特に詳しい案内看板があるわけではないので、事前に下調べをしておくのがよろしいかと。
馳せるにはよい場所ですよ。
看板のみしかし耳川といい戸次川といい、大友って戦下手なんじゃと思ってしまうもちろん領土拡大してるのだからただの戦下手ではなく島津が強いんだろうけど。
島津氏VS大友氏。
大友宗麟は戦いには出てきませんでしたが強者の家臣たちが戦いました。
大仁の乱以降求心性を失い、やがて纏まろうとする。
島津貴久が薩摩をまとめ島津義久、義弘兄弟の時代。
耳川の戦いと沖田畷の戦いで勝利した島津が九州制圧に乗り出すも最後は秀吉の派遣軍に負けた九州制圧を断念します。
近代兵器近代戦略戦術には勝てませんでした。
でも維新の原動力になります。
かつて耳川の戦いが行われた場所ですが、看板があるのみで今は何もない草っ原になっています。
名前 |
耳川の戦い(高城川合戦)古戦場跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
2.7 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
看板があるのみ。
もう少し詳しい説明がほしかった...