夕焼けは一生の思い出になります。
新田義貞稲村ヶ崎渡渉伝説地 / / .
86.稲村ヶ崎の石碑(新田義貞徒渉傳説地)アクセス:江ノ島電鉄「稲村ケ崎」駅下車、徒歩約10分・唱歌「鎌倉」の歌い出しに、「七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎名将が剣投ぜし古戦場」とあり、この義貞の徒渉伝説を指している。
・作詞:芳賀矢一、作曲:不詳、大正3年(1914)刊行の「尋常小学唱歌」第六学年用に掲載された文部省唱歌。
鎌倉青年団が建てた石碑があり、次のような意味のことが刻まれている。
「今から584年前の昔、元弘3年(1333)5月21日、新田義貞はこの岬をまわって鎌倉に進入しようとして、黄金の刀は海に投げて潮が引くことを海神に祈ったというのはこの場所である」極楽寺坂が開削されるまで西から鎌倉に入るメインルートではあったが、急峻な海沿いの崖を進む難路であったらしい。
元弘3年(1333)には新田義貞が鎌倉攻めに入ったが、極楽寺坂の北条勢の防御が強く、大将大館宗氏が討たれるなど、新田勢は苦戦が続いた。
(十一人の塚の碑)そこで新田義貞は自ら稲村ヶ崎に回って、剣を海神に捧げて祈ると、潮が引き、兵士は潮が引いた海を渡って鎌倉に攻め入ったという話が『太平記』に見える。
この有名な徒渉伝説の真偽はわからないが、いずれにせよ、かつての稲村ヶ崎は岬を海沿いに進む道であったことがわかる。
そして、この稲村ヶ崎の突破により、鎌倉防衛線の一角はついに破れ、元弘3年(1333)5月22日、ついに鎌倉幕府は滅んだ。
このこともあって稲村ヶ崎は、国の史跡に指定されている。
唱歌「鎌倉」の歌い出し「七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎名将が剣投ぜし古戦場」とはこの義貞の徒渉伝説を指している。
名前 |
新田義貞稲村ヶ崎渡渉伝説地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.8 |
夕焼けは一生の思い出になります。