海と釜臥山がきれな場所でした。
戊辰戦争で破れてよくこの地迄はるばる船で来たもんだと、感心しました。
やっぱり昔の人々はすごいです✨
いろいろ勉強になりました。
会津藩が戊辰戦争に敗れ、斗南藩として再興を許されこの地に海路この地に上陸した場所で会津「鶴岡城」に向かって石碑が建てられています。
その当時のへきちに追いやられさぞ苦労されて開拓された事と想像します。
明治3年、旧会津藩士が新潟から海路でこの地に上陸。
斗南藩での再興がスタートしました。
現地は大湊ホタテセンターの裏になります。
激動の幕末、徳川幕府はもとより京都守護職の忠勤により孝明天皇の信任も厚かった第一義、忠節一筋の会津藩は屈辱の朝敵の汚名を着せられ斗南藩として下北半島に移封させられてしまいます。
この場所は新潟より下北半島を目指された斗南藩(旧会津藩)の方々が屈辱を胸に上陸された処で碑は会津の方向を向き建立、碑文は藩主松平家末裔の方の書、碑に使われている石は鶴ケ城の石垣と同じものが使われており会津の悲劇が胸を詰まらせます。
会津藩士の御子孫がされている大間の斗南藩資料館、斗南藩庁と藩校日新館が置かれた円通寺、重臣会議の場徳玄寺、飯盛山より古い白虎隊の供養塔がある観福寺など下北半島には斗南藩ゆかりの史跡が数多く点在しています。
是非、斗南藩の皆様の会津魂と無念と悲劇とご苦労の足跡を尋ねてみて下さい。
明治3年に新潟港から下北半島を目指した一団が、ここから上陸したそうです。
ここの石碑に使われている石は、会津鶴ヶ城の石垣と同じ材質だそうです。
名前 |
斗南藩士上陸の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
海と釜臥山がきれな場所でした。