父母に連れられて、記憶の範囲で60年。
浄土真宗 本願寺派 髙願寺 / / / .
昭和49年、高元寺と呼ばれていた頃法要でお世話になりました。
寺子屋宮内学校については、市教育委員会の歴史ガイドが建っています。
境内はアジサイがきれいです。
趣のある境内に蝉時雨蓮の実と百日紅の対比広い境内ではないが落ち着く。
覺王山高願寺。
浄土真宗本願寺派の寺院。
川崎市内の寺子屋発祥の寺院。
境内にある至心學舍は新潟の古民家を移築したもの。
高願寺の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿によると「慶安年中の水帳に弥陀堂料と云ことあり。
これ当寺のことなりと云」との記載があり、慶安年間(1648-1651)には既に創建されていたといいます。
江戸時代中期より寺子屋が当寺で開かれ、明治5年には宮内学舎となったといいます。
近年寺号を「高元寺」から「高願寺」へと改称しています。
私は檀家。
綺麗な本堂です。
この辺で最も古い寺子屋を営んでいたお寺のようです以下HPより引用===江戸の要衝、小杉御殿を守り固めたサムライ寺覺王山髙願寺は、親鸞聖人宗祖の浄土真宗本願寺派の寺で、二ヶ領用水の開削の頃にあたる 1603~1609(慶長8~14)年の直前の時期に開かれた。
寺伝によれば、新田義貞の子義興、義宗らが上野で兵を挙げ鎌倉へと進み後、足利尊氏との鎌倉争奪戦の戦乱の影響を市内でも被り、その家臣の霊を弔うための草庵として始まる。
その後、庵を改めて真言宗の一寺となった。
今からおよそ370年前の徳川三代将軍家光の時代、1638(寛永15)年に西本願寺第十三代良如上人に随喜した順徹によって、浄土真宗本願寺派に改宗された。
神地(ごうじ)の光円寺も帰依寺であった。
髙願寺は、江戸時代の重要な街道であった中原街道と府中街道との交差する位置にあり、府中街道と二ヶ領用水に囲まれたその寺領は、阿弥陀堂領として江戸幕府より賜受されたものであった。
帯刀を許されていた家来もいたところから俗称「侍寺」とも呼ばれていた。
また、髙願寺は、中原街道沿いの西明寺、泉択寺とあわせて、江戸幕府の小杉御殿の守り固めの役割も果たしていた。
また、髙願寺は、宮内の学校教育の発祥の場として、寺小屋教育も行なわれていた。
時には用水をめぐる利水、地境の争いの調停役に住職があたることもあったという。
当初の本堂・庫裡は、1753(宝暦3)年に灰燼に帰しており、翌1754(宝暦4)年、當山第七代南順は再建に取りかかり、同年3月26日には上棟した記録が前本堂の棟札から知ることができる。
前本堂は、宮内村の清水喜右衛門棟梁によるもので、堂内の内外陣を分かつ大欄間の一枚彫りの雲水竜は、長谷川久蔵作。
雲鳳凰は第八代円海の作であった。
しかし、1982(昭和57)年2月26日、再び火災により本堂は焼失し、現在の堂宇は1987(昭和62)年に再建されたものである。
また、2005(平成17)年、寺号を「髙元寺」から江戸時代中期ごろまで名のっていた「髙願寺」に改称する。
学校教育の発祥の寺川崎市で最も古い寺子屋が髙願寺に開設江戸時代中期以前から川崎市で最も古い寺子屋が当寺に開設され、広い地域から通う民衆の子弟等の教育にあたっていた。
境内にある1760(宝麿10)年に没した手習い師匠の寿毫堂の墓には、筆弟201人と刻んである。
1873(明治6)年、寺子屋は「宮内学舎」と名づけられた。
当時の記録によれば1ヶ月4銭6厘の授業料で生徒数 男15人 女38人 計53人の生徒が学んでいる。
のちに、「宮内学校」と改称され、1901(明治34)年「小杉学校」「丸子学校」とが合併されて「尋常中原小学校」が創設された。
覚王山と号します。
高願寺の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿によると「慶安年中の水帳に弥陀堂料と云ことあり。
これ当寺のことなりと云」との記載があり、慶安年間(1648-1651)には既に創建されていたといいます。
江戸時代中期より寺子屋が当寺で開かれ、明治5年には宮内学舎となったといいます。
近年寺号を「高元寺」から「高願寺」へと改称しています。
しかし、寺子屋や宮内学舎の面影はなく、説明看板だけが当時のを語ってます、
友人が眠る墓地があるお寺です。
境内には季節ごとに色々なお花が咲き、墓地は自然な雰囲気を残した作りで、心が落ち着きます。
厳かな雰囲気の良いお寺でした。
名前 |
浄土真宗 本願寺派 髙願寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
044-777-6544 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
父母に連れられて、記憶の範囲で60年。
毎年彼岸2、お盆1の三回参拝。
その両親も平成25年、31年に他界。
浄土真宗本願寺派。
立派な本堂です。
ご住職の説法と、御文章が心に響きます。
これから何年ぐらい参拝出来るかな。