大鳥山太郎頼遠は「前九年合戦」で安倍方の安倍正任を...
特段見るべきものがありませんでした。
見晴らしのよい舌状台地にツワモノの館が作られたのだなという程度です。
横手市内に後三年の役の遺跡とされる地は多いのですが、ほとんどが推定地のようです。
後世にこじつけられた伝説も多いです。
その中にあって大鳥居山は唯一ホンモノの遺跡であり、そのことに価値があります。
平安時代のこの地方の豪族・出羽清原氏(清原光頼・大鳥山太郎頼遠)の居城跡で、永承・天喜年間(1046~58年)に清原光頼・頼遠(大鳥居太郎)の父子が築城し、大鳥山太郎頼遠は「前九年合戦」で安倍方の安倍正任を匿(かくま)い、これを知った出羽守の軍勢は大鳥山(現在の大鳥井山)を包囲した。
この前九年合戦(1051~62年)以降奥羽一帯 を支配していた清原一族の内紛は、源 義家(八幡太郎)の介入により後三年合戦(1083~87年)へと発展し、横手盆地一帯に戦火が広がった。
この大鳥井柵は清原家衡が 拠点とした金沢柵と共に焼失し、源 義家・清原 清衡連合軍に敗れた一族は滅亡。
寛治元年(1087年)、藤原清衡の三男・正衡が関根柵を築いたと伝えられる。
その後、後世の戦国時代などには城としては使用されていない。
遺跡の特徴では、『後三年合戦絵詞』で金沢柵の様子から当時の柵跡のイメージができ、大鳥井柵跡が類似しているようだ。
また平泉の柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡の空堀との類似性が指摘されるため、藤原氏が清原氏の技術を引き継いでいる可能性があることも注目される。
安倍氏・清原氏が支配していた時期の土器も出土し、10世紀代の「払田柵(ほったさく)」との関係、11世紀代の奥羽の様相、12世紀代の藤原氏との関係を考える上での基準資料になっているようだ。
土塁・空堀が二重に巡る防御性の極めて強い柵であり、土塁・空堀は、外側から内側に向かって、土塁―空堀―土塁―空堀の順で配され、この内側、すなわち居住域の外縁には柵列も作られている。
地形の高低差を利用し、小高い場所に柵を設けていて、平面的な陸奥地方の柵との違いがここに見られる。
大鳥井山頂上には「大鳥井山神社」が月夜見大神(月読ツクヨミ大神)を祀り、この敷地には四面庇建物柱穴の跡が発見されている。
表参道の途中、両部鳥居(りょうぶとりい)が立っている場所が神社入り口のようで、調べた地図によると「大鳥神社」と書かれている社殿が建立されたようだ。
大鳥山頼遠居館阯碑がある参道を100m少し上がっていくと境内で、山頂部は狭いがこの境内には石碑や石仏などが点在している。
石碑を見ると「大平山」信仰がこの地域にはある。
清原氏居館の土塁や堀切がはっきりわかる、史跡にしてちょっと古びた運動公園。
冬場は13塚は埋もれて見えませんが、リスが沢山います。
雪が落ちてくる杉を見上げると容易に発見することができます。
名前 |
大鳥井山遺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.yokote.lg.jp/kurashi/1001140/1001262/1005069.html |
評価 |
3.7 |
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11世紀のお城の姿が残る防御性が高い居館。
清原光頼・頼遠親子の本拠地。
藤原清衡の祖母が光頼と兄弟かと思われます。
「後三年合戦絵詞」に描かれているような櫓や柵列などの跡が発見されているほか、大規模な2重の堀と土塁を巡らした居館跡で、清原氏の嫡流が住んでいました。
清原氏は11世紀中頃の出羽北部で大規模な勢力を持ち、前九年合戦では源頼義に加勢して安倍氏を滅亡に導いた一族だった。
外堀は幅9.7㍍、深さ3.5㍍もある。
土塁上には櫓や柵列の跡が確認されている。
頂上部には四面庇付の格式の高い掘立柱建物跡が確認されている。