名前 |
刀匠 田中国広遺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
刀鍛冶師「田中国広」の遺跡。
立て札には、下記の文章が書いてあります。
刀工であった祖父 實忠は、熊本県から移住、國廣は享禄4年(1531年)この地に生まれた。
長じて刀工となり、天正5年(1577年)12月まで、父 國昌と鍛刀に専念した。
日州古屋住國廣 作は、国の重要文化財に指定され、日州打ちと称して優秀な作風を示している。
刀身に大黒天(7福神の1つ)の彫物があるが、彫物にも才能があった。
主家である都於郡(とのこおり、現 西都市)の伊東 家が没落した時、伊東満千代(遣欧使節となったマンショ)の侍臣として豊後に落ちた。
その後、満千代ぎみが異国に渡ったあとは、再び刀鍛冶(かたなかじ)になったと古書に記されている。
その頃、有名な栃木県の足利学校にはいり、兵法の研究もして、足利の城主 長尾顕長から足軽大将に任ぜられた。
足利学校時代の鍛刀は、九州日向國廣 作として有名で、正親天皇から信濃守を受領している。
のちに京都堀川に住して鍛刀に専念、数々の堀川國廣の名作を残している。
優秀な弟子にも恵まれ、刀工界の大御所として慶長18年、84歳で幸福な晩年を終わった。
平成6年1月 綾町県指定文化財。