マァ…のんびりした良いとこですョ。
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡) / / .
聖武天皇彷徨の足跡を辿りたい古代史愛好家には探訪必須の場所。
コスモスの綺麗に咲いていました。
公園として整備され休日にはイベントが模様さるようです。
マァ…のんびりした良いとこですョ。
塔跡や金堂跡などから山城国分寺跡でしたが発掘調査から謎だった恭仁京内裏とされた所です。
発掘調査の結果から当時の様子を説明する掲示が数カ所点在しています。
近くの「くにのみや学習館」では無料で出土物や紹介ビデオが見学できます。
アクセスは海住山寺へ行く予定でしたら金堂跡地近くにも駐車スペースがあるので車が一押しです。
次は平日にJR加茂西口からのコミニティーバスです。
もしハイキング好きでしたらJR加茂駅〜恭仁京跡〜加茂神社〜海住山寺へのコースもオススメです。
聖武天皇は当地や紫香楽のように、山懐にいだかれるような地がお好きだったのでしょうか。
両地ともよく似た光景の場所です。
国分寺転用後の塔跡の礎石の大きさにはびっくりしました。
あまり大きな遺跡ではないので、ゆっくり出来ます。
たまに週末に人で賑わうことがありますが基本、人はほとんどいません。
無料のkyoto wifiが入るので車で休憩するにはもってこいの穴場スポットです。
◽アクセス①JR大和路線 「加茂駅」 西口. ▪徒歩約35分. ▪コミュニティバス(奥畑線・銭司線. ・西線) 恭仁宮跡 下車◽恭仁宮跡▪南山城の加茂に造られた宮跡です。
▪740(天平12)年、聖武天皇が都を遷し. ます。
恭仁京は僅か5年ほどで終り、. 744(天平16)年、廃都となります。
▪廃都後、山城国分寺が跡地に営まれ、. 大極殿跡には当時の礎石が点在し、. 塔跡の巨大な礎石群も残ります。
▪このことで、二つの遺跡が複合する. こととなっています。
▪2007(平成19)年、「恭仁京跡(山城国. 分寺跡)」として、国の史跡に指定さ. れました。
◽「くにのみや学習館」▪開館時間︰09:00~17:00▪休館日 ︰月曜日 (祝日の場合は翌日). 年末年始(12/28~01/04)▪入館料金︰無料▪駐車場 ︰あり▪恭仁宮の再現ビデオの上映や発掘調査. などにより出土した瓦や土器等の展示. を行っています。
交通量の非常に多い307号線からそれほど離れていませんが、とても広大でも静かな場所です。
740(天平12)年9月、大宰府で藤原広嗣が挙兵した乱が勃発後、聖武天皇は平城京を離れ、伊賀・伊勢・美濃・近江などを行幸。
12月15日、聖武天皇は行幸先で右大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の本拠・山背国相楽郡で恭仁京に遷都する勅命を出します。
正式名は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」で、大極殿は平城京から移築されています。
宮殿を造営し、左京右京が定められて条坊地割りが行なわれましたが、都としては完成しないまま743(天平15)年、近江紫香楽宮に遷都されてしまいます。
その後、744(天平16)年2月に、難波京(現・大阪)に遷都。
さらに745(天平17)年5月に都は平城京に戻されるという具合に目まぐるしく都が遷されています。
恭仁京の宮域は、南北750m、東西560mの南北に長い長方形で、背の高い土塀(築地塀)で周囲を囲んでいました。
その内部に、儀式が行なわれる内裏や政務などが司られた大極殿や朝堂院、官僚たちが政務を行なう官衙(かんが=古代の役所)などが造営されました。
近江紫香楽宮遷都後は、宮殿跡は山城国分寺に造り替えられて、恭仁宮大極殿はそのまま山城国分寺金堂に転用されています。
大極殿の北西と南西の隅に位置する礎石は往時のままに現存しています。
古代には、山城国ではなく、山背国と表記されていました。
平城京から見て奈良山(平城山)を超えた地、つまりは山の背後という意味で山背国と名付けられたわけなのです。
現在の木津川市山城町一帯が、その「ヤマシロ」にあたります。
古代に一帯には高句麗系の渡来人が数多く暮らしていました。
上狛、下狛、狛田などの地名は、高麗に由来するもので、古代には高麗寺も建っていました。
ここに最初の山背国の国府が置かれています。
律令国家の完成とともに、ヤマトが奈良盆地一帯の大和となり、ヤマシロが京都盆地全体を指す呼称と拡大していきます。
名前 |
史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.kizugawa.lg.jp/index.cfm/8,28716,36,420,html |
評価 |
4.2 |
741年~746年、この地に都がありました。
しかしながら、未だにそのほとんどが謎のベールに包まれています。
幻の都「恭仁京」に思いを馳せて下さい。
恭仁京はこの場所(瓶原~鹿背山東端)、木津川の対岸の京内橋辺りまでを左京、岡田國神社周辺(鹿背山西端~西木津)と高麗寺辺りを右京とする二つに別れた独特の配置の都でした。
そのうち、天皇の宮城があったのがこの場所になります。
厳密には山城国分寺の「塔院」に当たる場所です。
国分寺の礎石以外、何一つ残っておらずあとは来た人の想像に任せるのみです。