讃岐斎藤家讃岐大平家が戦国時代に城主を務めた。
藤目城跡(粟井城跡) / / .
主郭は細長くシンプルで、しっかり削平されています。
南側に帯曲輪が2
粟井神社から遊歩道、若しくは車で登れます。
ゆっくりウォーキングにはいいです。
紫陽花が沢山植わっていますが、まだ全然咲いていませんでした。
城跡にお社があり、更に階段を少し登ると本丸跡です。
本丸跡は48箇所を模したお地蔵様が並んでいるだけです。
🌟🌟🌟1つ目の斎藤家家紋は、源氏との繋がりを思わせる笹竜胆(ささりんどう)🌟二つ目は、斎藤家の元々の家紋である🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟藤目城は阿讃山脈から三豊平野に達する先端に藤目山の山頂部及び東側の尾根上に位置している。
山頂部に本丸があったといわれ、その他にも四国八十八ヶ所霊場のミニ霊場が設置されている。
山頂以外には藤目稲荷神社、藤目不動院、剣山拝殿がある。
北東方向に天霧城跡が望むことが出来る。
歴史編集斎藤氏は加賀国(現・石川県)の出身で斎藤師郷の父、斎藤信国がこの地に来たことより始まる。
1万3千石(一石が米で180キロ)を領して築城したといわれる。
藤目城の戦い背景天正4年(1576年)、斎藤師郷は縁故関係があった白地城の大西頼包の誘いに乗じて、長宗我部元親に降伏し、孫を人質として頼包に送った。
しかし、これを知った讃岐の諸豪族は怒り、特に聖通寺城城主奈良勝政は阿波の十河存保に藤目城攻めを依頼した。
これで藤目城は同じ国の者同士と戦うこととなった。
藤目城攻撃十河存保は天霧城主香川氏と奈良勝政に命じ、藤目城を攻めさせた。
天正6年(1578年)夏、奈良勝政は長尾大隅守、羽床氏、香川民部少輔など那珂・鵜足・阿野の兵3千を引き連れて藤目城に攻撃。
斎藤師郷方は元親家臣、桑名太郎左衛門・浜田善右衛門など兵1千いたが 香川氏が兵3千を率いてこれらに加わるという流言が飛び、斎藤師郷は闇夜に阿波へ逃げた。
この戦いではあまり激しい戦いは行われていない。
奈良勝政は城に入り、新目弾正を城代として城を守らせた。
合戦元親は藤目城攻撃に香川氏が参加しなかったのを見て、機が満ちたと考え、その年の秋に財田本條城に進出した。
本條城主の財田和泉守(本庄和泉守🌟ほんじょう・いづみの・かみ)は香川氏に援兵を求めたが断られ、討死した。
※のちに大平国秀が本庄城主と成り城の名を変更した元親は5千の兵を率いて藤目城に迫った。
守将・新目弾正は名だたる勇将で、まず伏兵(待ち伏せ)をもって奇襲攻撃をし、混乱する土佐勢を目前に城へ引き返した。
松茸山に陣する土佐勢は城中めがけて盛んに鉄砲を撃ったが、抵抗は強く元親自身も突撃した。
長宗我部氏にとって最初の讃岐戦において史上まれに見る激戦であった。
夜に入り城の一角が崩れるとそこから城内に侵入し明け方陥落した。
弾正以下5百人は全滅し、土佐勢も7百人が戦死した。
旧城主の斎藤師郷は再び城に帰還した。
🌠🌠讃岐・細川家の重臣の讃岐・斎藤家🌠細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏の名門足利氏の支流。
名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。
名前 |
藤目城跡(粟井城跡) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
讃岐斎藤家讃岐大平家が戦国時代に城主を務めた。