とても感じの良いお寺です。
まず目を引くのは茅葺き屋根の山門でした。
寺院そのものが茅葺き屋根のお寺は旅先などで見かけましたが山門が茅葺きになっているのは初めてでした。
奥行のある境内は青もみじが雨に濡れキラキラ輝き綺麗でした。
写経や座禅体験も出来るそうです。
境内から茅葺き屋根を眺めると新幹線の橋梁が山門の四角の中に収まり異空間から現実に引き戻される気がしました。
6~7年前になりますが、僧侶であり社会事業家であった「辻田玄粲(げんさん)」(来迎寺元住職)の事績を調べる機会がありましたが、ここ『瑞松庵』の元住職であった「本永昇山」も関係していたので訪れました。
多くの投稿写真からも分かるように、小高い山の斜面を巧みに利用した禅宗(曹洞宗)ならではの趣きある庭園に思わず観入ってしまいました。
山門からも窺えますが、1412年(応永十八年)開山の古刹でした。
さて、大正10年(1921年)1月、「辻田玄粲」が現実社会と繋がる仏教活動を目指した仏教会『法苑社』を結成(大正10年1月)しますが、「本永昇山」も結成者四人の中の一人でした。
この積極的な姿勢には、「昇山」なりの背景があったように思います。
その一つは、「千林尼」の存在です。
彼女は二十才前後で仏門に入ったと云われています。
船木の勘場(萩藩の代官所)から米を棚井の厚東川舟着場へ運搬する険しい山路で人馬が難渋していました。
慶応年間、「千林尼」は自ら托鉢し浄財を集めて難所に石畳道を造りました。
もう一つは「毛利勅子(ときこ)」の存在です。
「勅子」は徳山藩から厚狭毛利家に嫁ぎました。
維新後、「勅子」は船木区長と女子教育の重要性を縣に訴え、厚狭郡船木村に1873年(明治6年)、「船木女児小学」を開設します。
なお、「千林尼」は1857年(安政四年)、瑞松庵末寺観音堂の堂主となっていたそうです。
このような先人の民衆に対する取組を了知していたので、「昇山」は「玄粲」と共に行動をしたのだと思います。
少々堅苦しいクチコミにはなりましたが、この周辺の寺院は、小山を背景にした境内地を有し、自然の美しさに溢れていると思いました。
名前 |
瑞松庵 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0836-67-0163 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
竹灯篭、素朴だけど華やかさもあり、琴の演奏も素敵でした。
表の階段のろうそくの光にてらされた風景も綺麗てした。