那賀病院のバス停近くにポツンとある石碑。
一七八五年(天明五年)、華岡青洲(はなおかせいしゅう)は、京都での医術修行を終え、故郷である紀伊の国に戻ってきた。
青洲は漢方の一種である古方を学ぶ一方、オランダ流外科を修めるなど、最先端の医術を身に付けた。
しかし、それは医術の限界を痛感することにもなった。
たとえば乳がんは、切れば患者の命が危ういとされ、当時は外科治療の対象ではなかった。
乳がん切除のような大手術は、全身麻酔をしなければ患者は耐えられない。
青洲は麻酔の研究を始めた。
先人の用いた麻酔薬の処方を改良し、延べ十数人のボランティアの協力を得て有効性と安全性を確かめた。
母親と妻が投与試験に参加したとも伝えられている。
そして、ついに一八〇四年(文化元年)十月、青洲は六十歳の患者に対する乳がんの手術に挑んだ。
患者に脚気(かっけ)と喘息(ぜんそく)があったため、四〇日以上もかけてそれらの治療を行うなど、青洲は慎重に手術前の準備を進めた。
チョウセンアサガオを主成分とした「麻沸散(まふつさん)」による麻酔はよく効き、乳房から癌だけを摘出する手術は見事に成功した。
その後、青洲のもとには麻酔や手術の方法を学ぶために、多くの若い医師たちが集まってきた。
青洲は意欲ある医師を見定め、不断の努力を惜しまぬ「医の心」とともに麻酔法を伝授した。
それは、日本の外科手術の発展につながった。
欧米で初めて全身麻酔が行われたのは、青洲の手術の成功から約四〇年を経てからのことであった。
世界で初めて全身麻酔による手術を成功させたのは、なんと日本人医師の華岡青洲だった。
では、なぜ青洲は麻酔薬を作ることを思い立ったのだろう。
青洲は若いころ、京都で医学修行をしていたとき、東洋医学の一種である古法派の医師・永富独嘯庵(ながとみどくしょうあん)の書物に「欧州では乳がんを手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれているのを知った。
乳がんを根治するほど大きく切るのは、患者が受ける耐えがたい痛みを解決しなければ不可能だ。
そこで麻酔法の完成こそ、がんの医療を進歩させる最重要の課題と考えたのだ。
ハルステッドの乳房一括切除術は大胸筋や腋窩(えきか)のリンパ節まで含め、大きく切除する。
当時、ヨーロッパで乳がんの手術が試みられていたのは事実だが、治療成績はかんばしくなかった。
19世紀後半を代表するドイツの外科医・ビルロートでさえ、手術後の再発率は80%を超え、3年生存率は4~7%程度だったとされている。
全身麻酔法や、無菌的手術法が開発された後、19世紀末に乳がん一括切除術を考案したアメリカのハルステッドは、再発率を6%にまで抑え、今日の乳がん根治術に至る術式を確立した。
(Halsted WS:The results of operations for the cure of the breast performed at the Johns Hopkins Hospital from June
名前 |
華岡青洲顕彰記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
那賀病院のバス停近くにポツンとある石碑。
最近まで存在すら気付かなかった(笑)。