橋の北西のたもとに松が一本だけあります。
大阪市福島区のABCテレビの近くにひっそりとある蛸の松です。
中之島の中にあると言った方が正しいか。
昔、大阪では、各藩の蔵屋敷の前に自慢の松をたくさん植えていたそうです。
その中で、広島藩主・福島政則が植えたものが、蛸のような根っことして有名になり、今に至るとのこと。
実際にその蛸の松が植っているのと、その経緯の石碑が建てられています。
川のそばで、やっぱり物流は水の流れが必須だったのかなぁと歴史に心を馳せることができます。
天下の台所大阪ならではの史跡ですね。
江戸時代、瀬戸内海を通り、久留米藩や広島藩などの船が大坂蔵屋敷に荷揚げする際、目印になったのがこの蛸の松だ。
遡上してきた船は蛸の松を見、各蔵屋敷の船入りに錨を下ろした。
今はささやかな松になってしまったが、古写真を見ると確かに枝が蛸のように伸びている。
当時、中之島、堂島川沿いには28もの蔵屋敷が並んでいたという。
その景観は壮観だったに違いない。
名前 |
蛸の松 碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
蛸の松江戸時代、中之島には諸藩の蔵屋敷が建ち並び、屋敷前には各藩自慢の松が植えられていました。
人々は屋敷の白壁と川の流れに映る松の景色を楽しんだといわれています。
なかでも、堂島川のほとりの久留米藩と広島藩の境の浜の松は、枝振りが蛸の泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と呼ばれる名木でした。
月のタベや雪の朝の眺めはとりわけ美しく、絶賛されました。
江戸時代の「蛸の松」は地図に示す対岸にありました。
明治維新後は、大阪府師範学校附属演習小学校(現大阪教育大学附属天王寺小学校か大阪久留米藩箴屋敷跡地に開校し、その同窓会は、この地の松に因んで「雛松会」と名付けられました。
その後、「蛸の松」は次第に樹勢が衰え、明治時代も終わるころ、枯死してしまいました。
その切り株は現在、大阪教育大学に大切に保存されています。
このたひ護岸の美化にあわせ、かつての風趣を偲んご、「蛸の松」をこの地に再現しました。
平成十六年雛松会。