深い緑の中にひっそりとたたずむ神社。
見ての通りガタガタの階段だったりするので改修中でした。
ただ階段上からの景色と神社のいい感じの朽ち果て具合はなかなか素敵です。
雰囲気があって落ち着ける素晴らしい場所です✌鄙びてます。
龍源寺間歩(出口)から少し歩いたところにある神社です。
鉱夫や村人から「山神さん」と呼ばれ親しまれていたようです。
階段が少し上りにくいですので参拝の際は気を付けてください。
非常に味のある佇まい。
石段が良く、また上がった先の狛犬の造形に力があります。
特に目。
お社は改修されている途中みたいで、今現在はかなり傷んだ感じがあります。
お賽銭は正面扉の穴に入れてきました。
2019,12,8 現在改修工事中。
階段に味のある神社。
危なっかしいですが登ってみる価値はあると思います。
石段を見ただけで足がすくみました。
石段はガタガタで今にも崩れそう。
お祀りに登ったら降りなければ。
降りることを考えたら、お詣りを辞めました。
石見銀山のメインとも言える龍源寺間歩の出口を進むと右手に現れます。
写真の通りの急勾配かつ崩れそうな階段を制したもののみがたどり着ける場所です。
駐車場から龍源寺間歩まで約4キロのひたすら上りの後のこれです。
人っ気がない分、過去の賑わいを静けさのなかから感じられます。
佐毘𧶠山神社神社に伝わる「狭姫(サヒメ)伝説」狭姫は大宜都比売命の娘高天原にて乱暴を働いた須佐之男命(スサノオ)は、天照大神(アマテラス)の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、手足の爪も抜かれて高天原から追放される身となった。
その放浪の途中、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に立ち寄られた須佐之男命は、そこで大宜都姫命(オオゲツヒメ)と出会い、食べ物を求められたが、大宜都姫命は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で大宜都姫命を斬り捨てた。
大宜都姫命は、息絶える前に娘の挟姫(サヒメ)を呼び、全身の力を振り絞って顔・胸・手・足など五体を撫で擦りながら、稲・麦・豆・粟・稗などの五穀の種を生み出された。
そして、挟姫にその五穀の種を授けて「母亡き後は豊葦原(とよあしはら)に降り、五穀を広めて瑞穂の国とせよ」と言い残して息絶えた。
挟姫は、母の亡骸にすがって泣き悲しんだが、その時、どこからとも知れず飛んで来た1羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種を携え、雁の背中に乗って東方へ旅立ったのである。
やがて雲間より、鷹島(高島)という一つの島が見えた。
挟姫はその島に降りて種を広めんとしたが、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達は「この島では魚や鳥、獣を獲って食うので種はいらぬ」と挟姫を追い返した。
挟姫が次の島である須津(すづ)の大島(鷲島)に辿りつくと、そこに棲む足長土(アシナヅチ)という荒くれた男達に「この島では魚を獲って食うから、種などいらぬ」と再び追い返された。
そこで挟姫は大浜の亀島(神路泊)で一休みし、次に豊葦原の本土に渡って赤雁(地名)にある天道山(てんどうざん)に降り、そこから一際高い比礼振山(ひれふりやま)に降り立った。
挟姫は比礼振山を中心として五穀の耕作を広めながら、日々の糧を恵み、民を助け、賊徒を追い、心安らかな国を開かれた。
そして、種村(たねむら)、弥栄(やさか)、瑞穂(みずほ)、佐比売村(さひめむら)など東へ東へと進み、遂に佐比売山(小三瓶)まで辿りついた。
最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命の乙子(末娘)ということに因んで「乙子町(おとこちょう)」となり、種を伝えたことから「種(たね)」となり、持参した五穀の種を赤雁の背から大空に千振(ちぶり)に振り蒔いたその様から「千振(現・種村町)」となり、「赤雁(あかがり)」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたという。
ここまで来たら行きましょう。
多少荒れてますが世界遺産ですから~❗
見上げるような階段を、木々や苔の緑の澄んだ空気の中登るのは気持ち良いです。
鑛山を司る神樣なので、かうした街にお祀りされてゐる譯です。
苔の生えた長い石段、その脇に連なる石垣がとても趣があります。
太~い杉の木や、渓流がマイナスイオンをたっぷり放っています。
佐毘𧶠山神社神社に伝わる「狭姫(サヒメ)伝説」狭姫は大宜都比売命の娘高天原にて乱暴を働いた須佐之男命(スサノオ)は、天照大神(アマテラス)の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、手足の爪も抜かれて高天原から追放される身となった。
その放浪の途中、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に立ち寄られた須佐之男命は、そこで大宜都姫命(オオゲツヒメ)と出会い、食べ物を求められたが、大宜都姫命は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で大宜都姫命を斬り捨てた。
大宜都姫命は、息絶える前に娘の挟姫(サヒメ)を呼び、全身の力を振り絞って顔・胸・手・足など五体を撫で擦りながら、稲・麦・豆・粟・稗などの五穀の種を生み出された。
そして、挟姫にその五穀の種を授けて「母亡き後は豊葦原(とよあしはら)に降り、五穀を広めて瑞穂の国とせよ」と言い残して息絶えた。
挟姫は、母の亡骸にすがって泣き悲しんだが、その時、どこからとも知れず飛んで来た1羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種を携え、雁の背中に乗って東方へ旅立ったのである。
やがて雲間より、鷹島(高島)という一つの島が見えた。
挟姫はその島に降りて種を広めんとしたが、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達は「この島では魚や鳥、獣を獲って食うので種はいらぬ」と挟姫を追い返した。
挟姫が次の島である須津(すづ)の大島(鷲島)に辿りつくと、そこに棲む足長土(アシナヅチ)という荒くれた男達に「この島では魚を獲って食うから、種などいらぬ」と再び追い返された。
そこで挟姫は大浜の亀島(神路泊)で一休みし、次に豊葦原の本土に渡って赤雁(地名)にある天道山(てんどうざん)に降り、そこから一際高い比礼振山(ひれふりやま)に降り立った。
挟姫は比礼振山を中心として五穀の耕作を広めながら、日々の糧を恵み、民を助け、賊徒を追い、心安らかな国を開かれた。
そして、種村(たねむら)、弥栄(やさか)、瑞穂(みずほ)、佐比売村(さひめむら)など東へ東へと進み、遂に佐比売山(小三瓶)まで辿りついた。
最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命の乙子(末娘)ということに因んで「乙子町(おとこちょう)」となり、種を伝えたことから「種(たね)」となり、持参した五穀の種を赤雁の背から大空に千振(ちぶり)に振り蒔いたその様から「千振(現・種村町)」となり、「赤雁(あかがり)」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたという。
深い緑の中にひっそりとたたずむ神社。
時代の流れに取り残されたかのような、静かで神秘的な時を感じさせてくれるところです。
名前 |
佐毘賣山神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-shimane/jsearch3shimane.php?jinjya=30215 |
評価 |
3.9 |
龍源寺間歩の帰り、当時坑道内に入る労働者達が安全祈願のために立ち寄る社、 9/25まだまだ緑がキレイでした。