名前 |
強頸絶間跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
4.7 |
茨田堤と強頸・衫子『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった。
そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、无邪志国造#子孫参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は策を用いて難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという。
江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。
大阪市旭区千林)として残っていた。
現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている。