悠久の歴史を感じる神社。
浪打八幡宮の特徴
瀬戸内海を臨む歴史ある浪打八幡宮は創建604年の由緒ある神社です。
尾長鶏が放し飼いされ、自然との共生を感じる神社です。
河内源氏の細川家由来の神社で香川三大大社の一つに数えられます。
尾長鳥がお迎えしてくれます。
石段が結構長い🥵
この神社を創建した敏達天皇・推古天皇の皇子髙村親王は南北朝のころ湊川神社で亡くなった南朝の忠臣、楠木正成の先祖である。
不思議なことに毎年楠木正成の命日に楠公祭が執り行われている。
この事実は、讃岐の国造家で日本最大のため池満濃池の地所を提供し、唐に留学中であった空海を呼び戻した矢原家の文書に残されていた。
矢原家は髙村親王の子孫でありこの一帯を治めていた長尾家に娘を正室として輿入れしていることからその関係性は深く事実に基づく資料の存在がうかがわれる。
藤原純友の乱の際、征討に功績があったため備中・河内の国に所領を賜い、後楠木正成の兄橘俊親の息子、元村がこの地を賜わり、現在の丸亀市津森に居を構えることになる。
元村の子、元高が白峰・長尾合戦の功により長尾に城を構え、その地名より長尾大隅守元高を名乗った。
この地区は後醍醐天皇の荘園であり皇子宗良親王が配流の際この地の南海道橘家学館院へお入りになっている。
後、南朝方につき荘内に配流されてきた多くの大名の息子は、何故か長尾家に高禄で懇願され仕官することになる。
矢原家は最後の男子が善通寺市の護国神社宮司をされていたが、その方を最後に絶えている。
70代続く矢原家系図は坂出市鎌田共済会博物館にまた橘俊親に関する記述は国立国会図書館蔵矢原理平著「讃岐名勝栞」明治40年発刊にあります。
最後に、吉田宮司さんに聞いた話ではある日和歌山から一升瓶を抱えた一団がある人より言われ理由もわからなかったが訪れ宮司より宗良親王と関係があることを聞かされると一斉に驚きの声があがったという。
何故かと問うと実は私たちは楠木正成一党の子孫なのですという。
矢原家文書は高松空襲の際焼失したとされているのでもう今となっては確認のしようがありませんが、長尾家の家紋が三房の橘、浪打八幡宮の紋が橘であることから、楠木正成が橘を名乗ったのも単なる仮冒ではないと思われます。
とても良い神社でした。
癒しパワーありますね。
由緒ある神社。社殿は放火により焼失、平成19年に建替が完成。尾長鶏が放し飼いされてます。ヒナが連れ去られたり、老尾長鶏が持ち込まれたりするそうで...。駐車場は4台分、表示はありませんが、鳥居沿いに駐車可能。(2022年10月2日)
推古天皇十二年(604年)高村親王がこの地に泊まられた時、夢に八幡神がお立ちになり、その後託宣により創建されたと言い伝えられています。
また「西讃府史」に「詫間、比地中、吉津、仁保等の諸村より祭れり」と有るように広範囲の氏子を持ち、昔から琴弾八幡宮、熊岡八幡宮と共に三八幡宮と称され、生駒家から四十石の寄進をうけていたと記されています。
平成19年6月12日未明に失火により本殿、幣殿、拝殿、神饌殿を焼失。
平成22年秋再建される。
秋の例大祭は毎年十月に行われており、五組の夫婦獅子による情緒豊かで繊細な表現や勇壮な動きの獅子舞や古式にのっとった三体の神輿の渡御等で賑わいます。
高台にある神社です!ここでは荘内半島の五社の御朱印がいただけます。
境内は綺麗で社務所の近くにはニワトリ?が飼われています!社務所は少し入りづらいかもしれませんが対応していてだいた方に大変親切にしていただきました!
創建は604年南海の大乱後に建てられた。
敏達天皇推古天皇を両親とする高村’(武村)親王による。
南海の大乱は群書類従の豫章記の鉄人来襲のことと思われます。
後裔は海崎氏、貞治元年(1362)まんのう長尾の地に移ってからは長尾氏を名乗る。
南海の大乱の関連地は今治市東禅寺、明石市稲爪神社、穂蓼神社です。
長尾家の中心的菩提寺、丸亀市綾歌町の福成寺、長尾大隅守九男の高乗の子孫が寺を守っておられます。
他は筆頭家老神余弾正が創建した超勝寺、長尾三家の片岡家による慈泉寺があります。
現在の石段は大正4年に作られました。
それ以前は北側の参道が使用されていました。
拝殿の北側にある地主神社林神社は後醍醐天皇の宗良親王とともに配流された臣下の社になります。
神輿は宗良親王が建武の新政後、都より賜った物が原型となっており八角・六角・四角の三基からなります。
春の放生会では海に生物を放流し、秋の祭りには壮麗な古流小笠原流の獅子舞が奉納されます。
一見の価値があります。
神前で新鮮になりますね。
河内源氏の細川家がこの地で最初に館を作った場所(小さな神社を大きな神社に改築した)令制国では讃岐国と呼ばれていました。
平安時代末期、屋島は平家の根拠地の一つであり、源平合戦の舞台としても知られています。
室町時代になると幕府管領細川京兆家が守護職をつとめ、細川氏の被官(香西氏・香川氏・安富氏・奈良氏)が勢力をはります。
■戦国期以前の香川県鎌倉幕府が滅亡して「建武の新政」が始まると、足利尊氏の一族の細川定禅が讃岐に入り、(分家を養うお金を節約するため土地を与えて自力で管理させた)国人衆を糾合します。
細川顕氏が讃岐守護に任じられると、以後細川氏が代々守護職に就きます。
とくに細川一族の対決となった「白峰合戦」を制した細川頼之が守護職となると、以降細川氏嫡流(京兆家)の分国となりました。
細川氏は管領として在京することが多く、領国支配は守護代の安富氏(東讃)と香川氏(西讃)に任されられました。
「応仁の乱」以後、幕府の求心力が衰えると、阿波の三好氏が讃岐国へ進出し、次第に安富氏・香川氏ら国人衆は三好氏の支配を受けるようになります。
このように讃岐の国人衆は細川氏によると領国支配とその崩壊の過程で、離合集散を繰り返すことになります。
細川氏が入国する以前の諸氏をみてみます。
まず讃岐国造の末裔讃岐氏一族が繁栄していました。
庶流(分家)には寒川氏・植田氏・神内氏・由良氏・三谷氏・十河氏・三木氏などがあります。
多度郡司家佐伯氏からは、真言宗の開祖空海が出ています。
本目・新目・山脇・長尾の諸氏も佐伯氏族です。
続いて讃岐国司藤原家成の子章隆を祖とする一族は「讃岐藤家」と呼ばれる武士団を形成します。
惣領家は羽床氏、一族に以下の諸氏があります。
大野(源氏)新居(源氏)香西(平氏)大林加茂(源氏)平尾(平氏)有岡福江古川石川(源氏)平田(平氏)柴野(源氏)玉井奥友久仲(信濃源氏)成宗竹内有馬新庄(源氏)本庄(源氏)詫間豊田(平氏)綾福家刑部西隆寺大手島大見植松辻山下(平氏)(源氏や平氏との婚姻で)羽床家は、その姓といざと言う時の援軍等を得る事につぎに戦国期の有力国人勢力を地域別にみてみます。
大内郡には、引田城の四宮氏、白鳥城の白鳥氏、虎丸城の水主氏があります。
寒川郡からは、讃岐氏の流れをくむ寒川氏・由良氏が起こっています。
三木郡からは、讃岐氏流三木氏が起こり、平木氏を分出しています。
その他に牟礼氏があります。
また三木郡・寒川郡は東讃の守護代安富氏の拠点であり、六車・富田・長町・瀧井・多田の家臣がいました。
山田郡からは、庵治・額田・菰田・高橋・村加・村瀬・池田・坂本・十河・三谷・拝師・田中・宮所・高松・植田らの諸氏が出てます。
なかでも蘇甲郷に起こる十河氏は三好長慶の弟一存が養子に入り、一大勢力を持ちます。
香川郡の東部からは、斎藤城の斎藤氏、高木城の乃生氏が出ています。
この他に大野・岡・佃🌠つくだ・竜満(九州の龍造寺と同族)・森・漆原・由佐・藤沢の諸氏があります。
香川郡の西部からは、山城国守護代も勤めた細川氏有力被官香西氏が出ます。
香西氏は在京することも多く、丹波篠山城(上香西家)を与えらえています。
その他、植松氏、飯田氏、遠藤氏(遠江の国の藤原氏)があります。
阿野郡は「讃岐藤家」は本拠地です。
源九郎義経の兄の子孫が阿野家でその娘養子に羽床家が入る惣領家羽床氏の発祥地羽床郷があり、多くの庶家が分出しています。
鵜足郡からは、細川氏有力被官の宇多津城主の奈良氏が出て、那珂郡にも勢力を拡大しています。
その他、長尾城の海崎氏、造田氏があります。
多度郡は西讃の守護代香川氏の本拠雨霧山城があり、戦国末期まで威勢を振るいました。
この香川氏は桓武平氏鎌倉氏流で相模の国高座郡・香河の発祥です。
那珂郡からは、那珂氏・金倉氏(河内源氏)が出ています。
瀬戸内海に浮かぶ塩飽諸島は海賊の拠点です。
塩飽・宮本・吉田・妹尾・渡辺の諸氏、直島からは高原氏が出て、塩飽海賊を形成しています。
三野郡からは、詫間氏(源氏)三野氏(藤原氏)藤田氏(藤原氏)大見氏大平氏(藤原氏)二宮氏(藤原氏)財田氏(信濃源氏の本庄家・本城家と同族)が出ています。
豊田郡からは、豊田氏(平氏)・斎藤氏(斎宮頭の藤原氏)がおり、斎藤氏は三木郡の斎藤氏の同族と思われます。
天正6年(1578)土佐の長宗我部元親の侵攻を受け、西讃岐の香川氏(平氏の鎌倉家の流れをくむ)が降伏すると、国人衆は次々軍門に下り、天正12年(1584)十河城・十河氏が降伏することにより、讃岐国は長宗我部氏に制圧されます。
しかし天正13年(1585)豊臣秀吉よる四国征討が始まり、讃岐国へは宇喜多秀家を総大将とする豊臣軍が侵攻し平定されました。
🌠細川氏(ほそかわし)は、本姓は源氏、鎌倉時代から江戸時代にかけて栄えた武家。
清和源氏の名門足利氏の支流。
名字は鎌倉時代に三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)に土着したことに由来する。
沢山の木々に覆われて沢山のイオンを感じました🍀ナビで行ってみたのですが、裏参道の細道を案内されました😀
御朱印ありますが宮司さんがいらっしゃる時とそうじゃない時があるので確認されてからのほうがいいと思います。
駐車場は停めやすいです。
蚊は10月でも普通にいますので対策はされたほうがいいですよ。
綺麗に手入れされているようです良いと思います☺
静かな佇まい。
帰ったら必ずいきます、年に50回ぐらい行くかな。
散歩コースです。
色々な神樣が祀られてゐて、本當に素晴らしい神社だと思ひます。
每月缺かさず參拜させていたゞいてをります。
604年創建、香川三大大社に数えられる。
トリプルファイアー吉田くんの実家。
無事工事が終わりました。
名前 |
浪打八幡宮 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0875-83-3009 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.3 |
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波打八旛宮 320回閲覧〒769-1101香川県三豊市詫間町詫間1376☎0875-83-3009瀬戸内海を臨む穏やかな街に佇む歴史由緒ある神社です。
創建から1400年。
今もなお三豊の地を鎮守しています。
㊗️総閲覧者数が572万回を超えました🎵٩(๑❛ᴗ❛๑)۶皆さん閲覧ありがとうございます😊。
👍イイネありがとうございます☆彡弁護士ドットコム会員市会議員後援会員県会議員後援会員国会議員後援会員。