ひまわりが満開の時は特にきれいでした。
日根藤六とは、寛政元年(1789年)から寛政五年(1793年)まで有田郡奉行(ありだごおりぶぎょう 江戸時代の郡村を統轄する役職で、よくいうところの代官。
今で言うならば・・・国から派遣された市長かな?)を務めた役人です。
寛政四年(1792年)7月8〜9日に有田川で大洪水が発生し、この辺りの堤防が決壊、大きな被害と共に、広範囲にわたり堤防が崩壊してしまったそうです。
翌年の寛政五年3月、日根藤六はこの年の田植えまでに堤防を復旧するため近辺の村々にも出役を依頼したりと自ら陣頭指揮を取り、皆を励ましつつ指示を出し、見事にその年の夏までに堤防を完成させたそうです。
一般的に『郡奉行』の重要な仕事は徴税であり、どこの地域でも郡奉行の在任中は郷民から鬼のように思われ、ただ真面目に仕事をしているだけでも私たちが思うような時代劇の『悪代官』のように思われ、任を解かれたとなれば誰一人頭を下げるどころか見向きもしないというような具合だったそうですが、堤防完成後に藤六が口熊野(和歌山県西牟婁郡上富田町あたり)郡奉行へ任地替えという通達が来た時には、石垣荘の神保氏、藤並荘の平林氏、湯浅荘の飯沼氏、宮原荘の上野山十太夫氏と、各地区の大庄屋が連名で藤六の留任嘆願を藩の評定所に提出(石垣荘大庄屋記録 より)したが認められず、口熊野へ赴任の日には沿道の村人たちは郡境まで列を作り別れを惜しみながら見送ったそうです。
幾年が過ぎ藤六も亡くなり、宮原と下中島の農民が堤防の恩恵に感謝し、日根本廟という廟をこの地に建て藤六の霊を祭りました。
明治四十一年(1908年)に田殿神社に合祀されたという記録があり、その後、昭和二十九年(水害の翌年)に当時の須谷(すがい)区長の栗栖栄一氏が発起人となり、元の日根本廟跡に顕彰碑が建立され、老朽化に伴い平成二十三年(2011年)3月に再建立されたということです。
また、日根藤六が「堤防完成後、藩費を使いすぎて自害した」と言う話も聞きますが、同じく有田川の堤防工事に尽力した望月太左衛門の話と混同してしまった誤認識です。
この地域で政治に関わる方々には、先ずこちらに来て手を合わせた上で決意表明をしていただきたいと、私は個人的に思います。
夏には向日葵が咲き、地元民や子供達の憩いの場となった今、堤防の上から日根藤六はこの地をどの様に眺めているのでしょう。
テレビで水害を見るとおもい出します。
名前 |
日根藤六之碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
ひまわりが満開の時は特にきれいでした。