このまま残しておいてほしいものです。
前浜掩体群 1号掩体 / / .
戦後70年以たちそのまま残っているのは奇跡です、このまま残しておいてほしいものです。
たまたまツーリングで通りかかって初めて見たときは驚いた、近くに空港があるので多分戦時中の格納庫だと予想はしたけど時代を感じさせる貴重な物です。
知らずに見かけて、農家の機械置き場かな〜、変な形だな〜、ぐらいにしか思っていませんでした;;戦時中の史跡だったんですね。
いくつか同じ物が この区画に点在していますが、草に覆われた物もあって コンクリート製であっても 時代を感じさせてくれます。
他の6基の掩体が東または南向いているのに対して、この1号だけは入り口が西向きになっている。
大きさは、幅約22メートル、奥行き約11メートル、高さ約5.2メートル、コンクリートの厚さは約30~40センチ、大小のかまぼこを切ってくっつけたような形をしており、後ろ半分は小さくなっている。
飛行機は尾翼を奥にして、数人の兵隊の手で押し入れられた。
この掩体には、大小あわせて約60個の弾の痕跡が残っている。
これは、アメリカのグラマン戦闘機の激しい機銃掃射を受けたものである。
その当時、作業していた勤労奉仕の生徒が約30人が、グラマン二機のうち一機から機銃掃射を受けたことを証言している。
幸いなことに、一人の生徒の帽子に弾が当たったが無事であった。
掩体に格納していた飛行機(多分白菊であろう)は蜂の巣みたいに一面穴だらけだったという。
しかし、アメリカ軍の攻撃はこれが始まりで、今度は東の掩体のところに爆弾一つ落ち、こんどは旧前浜小学校の玄関と講堂、校舎の西へも落ちたという。
旧前浜小学校の口コミ参照。
第2次世界大戦中、高知県内には3つの海軍航空隊と4つの飛行場があった。
その中の高知海軍航空隊は、香美郡(現在南国市)日章村にあり、当時の滑走路は高知龍馬空港に、兵舎跡は高知大学農学部・高知工業高等専門学校になっている。
当時の飛行場には、飛行機を整備する作業場や飛行機を入れておく格納庫などのたくさんの建物が並んでいた。
それらの建物は敵の攻撃を受けると、簡単にやられてしまう。
そこでどんなにひどい爆撃を受けても、大事な飛行機が守れるように、掩体(えんたい)をつくった。
掩体は、飛行機の格納庫で、防衛庁(高知空港史)の資料によると、当時、中型15基、小型9基、W型17基あったと記されている。
掩体は、鉄筋コンクリート製のもや、木や竹、土で造られたもの、屋根がなく擁壁のみのもの(耐弾式無蓋掩体たいだんしきむがいえんたい・・無蓋・・ふたのない・・屋根がない)などもあった。
現在残っているものは、コンクリート製のもの7基だけであるが、当時どの掩体にも中央の滑走路からそれぞれの掩体まで東西3本、南北4本の幅約40メートルの誘導路がはりめぐらされていた。
掩体は、単なる飛行機の「格納庫」だけでなく掩体がつくられるまでに戦争の準備はどのようにされ、国民(住民)はどのように駆り出されどのように苦しみ、その途中どのようなことがあり、最終的にどのような結果となったのかなど、掩体はものは言わないが私たちに教えてくれるものである。
2006年2月21日、掩体は「前浜掩体群」(まえはまえんたいぐん)として南国市史跡に指定された。
指定の裏には「掩体壕を文化財に推進する会」(1997年8月12日結成)の取り組みがあった。
会長故中村雄輔さん、事務局長故窪田充治さん。
そして、南国市、南国市教育委員会の優れた判断があった。
2007年には、「掩体ガイド養成講座」を3回開き、8月には2号掩体のすぐ前の前浜公民館で150人の参加で会場は満員となり、当時の南国市教育長の祝辞を受け、大湊小学校の児童など7団体の演奏やマジックショーなどで成功した。
推進する会は、2008年8月17日、掩体物語のブックレットも発行した。
なお、掩体コンサートは、史跡に指定された後の現在も毎年8月に実施されている。
※「掩体を文化財に推進する会」の会員たち は、7つの掩体を便宜的に南から順番に番 号を付けた。
(ブックレット「掩体物語」掩体 壕を文化財に推進する会より)※文化財に指定されている掩体壕は、南国 市以外にも全国に存在している。
主なもの は、千葉県茂原氏11基、千葉県匝瑳市 (そうさし)4基、大分県宇佐市10基、北海 道根室市6基、などである。
この付近には第二次世界大戦の時に造られたコンクリート製の飛行機用の防空壕が点在しています。
頑丈に作られているので撤去出来ず今は農機具の小屋のような感じで使われています。
現,農機具置き場。
名前 |
前浜掩体群 1号掩体 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.6 |
近づけないですが歴史を感じました。