百相と呼ばれた古代の邑の中心地でした。
百相と呼ばれた古代の邑の中心地でした。
ここには今は廃寺となっていますが百相寺という古代寺院がありました。
創建は天平時代(七二九~七四九)で、境内は八丁(約八〇〇m)四方といわれ(『讃岐香川郡志』)、鐘楼跡の礎石が現存し、神宮寺の境内からは天平瓦が出土するなどの外、境内には俗に千年の大楠と言われるものが香川県の天然記念物として指定 (一九六〇年七月七日)されています。
その百相寺が廃寺となった後、船山神社の別当寺として神宮寺が誕生しました。
もともとは船山神社は隣村(現在の香川町)浅野地区の船岡山北麓に祀られていて、船岡山に社があったので船山の社といい、近郷の大社であったようです。
貞治二年(一三六二)には、当時讃岐の国司であった細川頼之の住居、岡の館(香川郡香南町岡)以北の鎮守として米二石三斗が寄進され (『ふるさと仏生山』)、貞治五年(一三六六)には右馬頭細川頼之の名で、神前に揚げられた扁額が現存しています。
土佐の長宗我部の侵入の際に、船岡山の山上にあった船山神社も社殿を失います。
江戸時代に復興されますが、もとの船岡山の山上ではなく、現在地に移されます。
この場所はかつて神宮寺(神仏習合時代に神社守護のために建てられた寺院)の別当が住まいするところだったので神宮寺大明神と呼ばれました。
明治期に神仏分離が行われて神宮寺が廃され、社号は百相神社と改められます。
もとの船山神社に戻されるのは、第2次世界大戦後です。
地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままです。
いま船山神社の境内は静謐にして風格の感じられるところです。
樹齢千年余りというクスノキの大木が全体を覆い、社殿が整えられて余裕を持った広い敷地が長い歴史と往時の繁栄をしのばせます。
由緒社伝によれば(人皇第七代孝霊天皇の皇女)倭迹迹日百襲姫命、上古讃岐の東部に来り給い、更に移りて当地船山に登り給う。
此の地讃岐の中央にして好き所なりと賞でし給いしにより、祠を之を奉ず。
地名百相(倭名鈔百相毛毛奈美)は、命の御名によって起れりと。
彦五十狭芹彦命は、倭迹迹日百襲姫命の御弟に座し、他の三神は配祀せるという。
創建は天平年間といい、初め浅野村船岡山に鎮座あり。
船岡山は古く、百相郷に属し船山と称し、当社又船山神社と、称へられ三代実録に「天慶五年十一月十四日、戊午授、讃岐国正六位上、船山神社従五位下」とあるは当社なりといえり。
名前 |
船山神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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関連サイト |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E8%88%B9%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ |
評価 |
4.2 |
ゲートボールしたり、平和な神社。