ここ松山の津に着いたとされる。
お湯は少ししょっぱい感じです。
前に流れる川で鮎、あめご、やまめ等1000円で道具も貸してくれて、吊りほうだいです。
串焼きしたあめごも食べれます。
レストランでは、鹿や猪のジビエ料理もおいしく頂けます❗
保元の乱に破れた崇徳上皇は讃岐の地に配流され、ここ松山の津に着いたとされる。
松山の津保元の乱(1156年)に敗れた崇徳天皇が讃岐に配流され、讃岐に上陸された地が、当時の坂出地域の玄関口であった『松山の津(港)』とされています。
その頃の松山の津と当時の海岸線を想定した地図が地元の松山地区の郷土史「綾・松山史」に記載されているので紹介します。
(古代には,海岸線が今よりもずい分内陸部まで入り込んでいたことが推測されており、この地図でも最奥部は現在の青海川の上流で春日神社や青海神社脇から流れ出た谷川の注ぎ口近くまでと想定されているようです)・t綾・松山史中にある挿絵上に青海川の川筋(干潮時)の方向を矢印で示す想定略線の記載があり、それによると「急峻な奥谷からほとばしり出る青海川の急流は、青海の平坦部を蛇行し乍ら北代(*1)辺りに達し、そこから左に向きを変えて雄山々麓の川西(*1)や雌山々麓の蚊渕(*1)辺りを洗い、更に右に蛇行して明神川と合流して現在の下新開地区(*2)のある瀬戸内海に注いだと思われる。
」とあります。
(綾・松山史より)・t(*1) 地名(旧くからの地名、他に浜西、浜東、浜新開等、海岸近くのよくある地名が内陸部にも多く見受けられる)・t(*2) 地名(新しい埋立造成地)上記の「松山の津想定図」と国土地理院の「デジタル標高地形図」(平成28年1月版)と見比べてみると、想定された当時の海域部の殆どの部分は現在でも標高1m未満であり想定された海岸線の精度の高さが伺われます。
因みに崇徳天皇が松山の津から雄山と雌山の鞍部にある峠道を越えて向かわれたと思われる、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の屋敷(仮の御所とされたと伝えられる“雲井御所”)は標高3m以上5m未満に位置します。
名前 |
松山の津 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.city.sakaide.lg.jp/soshiki/bunkashinkou/sutokujyoukou.html |
評価 |
2.7 |
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現在は陸地になり古の坂出の湊だったとは想像出来ないですが崇徳上皇もこの湊に到着したと思うと考え深いものがありますね。