こちらでも誤った認識で書かれているクチコミがありま...
御祭神 菅原道真公初めは中ノ村(今の稲荷神社社地)にあったが京都北野天満宮の分霊を勧請したと云われる。
現在の地は戦国時代には香西氏の家臣雑賀勘兵衛の城(館)であり土佐の長曽我部元親軍の讃岐侵攻の時に焼失し空地に成っていたと思われます。
高松大空襲にあい区画整理のためか遺構らしきものありません。
寛永十五年(1638年)四代藩主生駒高俊公が、今の地に移転しました。
生駒氏に代わり初代高松藩主松平頼重公は寛文十二年(1672年)九月に御祭神菅公自筆の画像を寄進し後には、祭殿十石を寄せ天台宗鶴林寺を当社の別当としました。
元禄十四年(1701年)には二代藩主頼常公が境内に弓場を造り、武道を奨励した。
三代藩主頼豊は、祭田を百石に増やし社号を中野天満宮と改めた。
明治維新後に今の社号に変えました。
一般には華下天満神社を古天神と云い、当社を大天神と呼びました。
天神前の町名は、この社によったものであります。
大正五年(1916年)には郷社に列格しました。
昭和二十年七月四日にアメリカ軍B-29の無差別絨毯爆撃で全て焼失しました。
戦後、社地を縮小し有志により昭和四十四年(1969年)に現在の現代的な鉄筋コンクリート製の社に再建致しました。
拝殿は二階にあり綺麗に掃き清められており気持ち良くお参り出来ました。
菅原道真に、入試合格祈願をしました。
駐車場がないので、近くのコインパーキングに停める必要があります。
昔は駐車場が小学校の避難場所みたいな所になっていました。
待ち合わせにも使ってましたねー懐かしい。
夜に通ると提灯がついててなんとも和風な感じがします。
駐車場がないのかな?
コンクリートなんですよね。
朝早くからの御朱印にも丁寧に対応して頂きました。
街の小さな天満宮。
神社の方がとても感じが良く1時間ほど立ち話。
受験の神様で有名と聞き友達の娘にお守りを買いました。
綺麗な神社です。
街中にあり見落とされやすいと思いますが、由緒ある神社。
お参りしておきましょう。
道真神社(原文)미치자네 신사
マイ神社です。
我が子数人の5回の受験合格とスポーツでの活躍、全て叶いました。
これからも感謝し続けます。
御朱印が欲しかったけど4時半ですでに無人でした。
曇りの夕方に行くと、暗くて人気もなくてちょっと怖いかも。
近代的な建物の社だか、歴史は古く京都の北野天満宮と同じ御祭神で由緒ある神社。
宮司さんはとても親切でした。
名前 |
中野天満神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
087-831-3009 |
住所 |
|
関連サイト |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE/ |
評価 |
4.0 |
こちらでも誤った認識で書かれているクチコミがありましたので僭越ながら訂正しておきます。
天正10年10月に長曾我部元親は阿波から讃岐に入りましたが十河城を囲んでいます。
つまりは元親はこちらには来ていないのです。
天正10年7月に香西を攻略したのは西讃の香川氏を中心とした西衆です。
この時は本陣を国分寺に構えており、こちらの高松市街地方面は戦場となっていないと考えられます。
こちらの方面から攻めた勢力は三好の軍勢となります。
このように三好や他勢力の可能性をすべてスルーしてなんでもかんでも長曾我部の責任としてしまっているのが現在の香川県の歴史です。
江戸時代の讃岐の郷土史家の中山城山が長曾我部は冤罪であると語っています。
中山先生よりも情報が手に入りやすい現在です。
史実に真摯に向き合いたいと考えます。