保元の乱は,朝廷内の権力争いとなったが,この乱で敗...
白峰宮 (崇徳天皇社/明ノ宮) / / / .
崇徳天皇の仮の殯をしたと言う清水の湧く池が有ります。
周りを石柱で囲み正面にお地蔵がおい出ておりました。
一段下にはにも池があり、夏にはそこでトコロテンが食べれます。
縁切り寺で有名と聞き訪れました。
神は、不条理な事にでも耳を傾けてくださると勉強し、私も目的を持ってお祈りして来ました。
大事な事や大事な人を守る為なら、神頼みです。
88ヶ所札所のお寺と同じところにあります。
【天皇寺】の敷地内に所在する神社.【崇徳上皇】が祀られてる(と言われる)神社であり【天皇寺】とsetで訪問する“お遍路さん”㋲少なくありません(*‘ω`*)💕【保元の乱(1156年)】の敗北により【崇徳上皇】→“讃岐国に流刑”になり。
崇徳天皇のゆかりの有る白峰宮(明ノ宮)です。
実に立派な鳥居、拝殿、本殿、祠等々また昔の形を残した神宮寺の天皇寺等・・・大変興味深いです。
2020/5/6 お礼参りにも行きました。
鳥居がとても印象的な所です。
とても悲劇の天皇と思えない位、小さな社です。
それも、お寺の敷地を分けてもらっているかの様です。
京都の人達が、恐れたくらいの方なので、大きな神社にして欲しいです。
縁切り神社らしく、友達の付き添いできました。
今はアートの麒麟がいっぱいいました。
とても綺麗でした。
保元の乱は,朝廷内の権力争いとなったが,この乱で敗れた崇徳院は,都を追われ讃岐に流される。
その後も継子いじめのような度重なる朝廷からの不当な取扱いに,憤怒と望郷の想いを胸にたぎらせこの地で没する。
崇徳天皇には,その出生からして,悲劇の始まりを予感させるものがあった。
白河法皇が自分と関係が継続していた待賢門院を,孫の鳥羽天皇の后にする。
その後も二人の関係は続き,やがて不義の子として生まれたのが崇徳院である。
鳥羽天皇の子として成長はするが,鳥羽院からみれば自分の叔父でありしかも子でもあることから,崇徳院のことを叔父子(おじご)と呼んだ。
保元の乱崇徳院は,鳥羽天皇の後,即位するも退位を迫られ,弟が近衛天皇として即位する。
その近衛天皇が若くして崩御すると,崇徳院は自分の子を天皇にと願うが,崇徳院のもう一人の弟が後白河天皇として即位してしまう。
この後白河天皇と崇徳院との対立に端を発して,やがて保元の乱へと発展する。
この崇徳天皇と親交のあった歌人に西行がいる。
西行は,和歌を通してこの崇徳天皇と親交があったことから,天皇の死後8年して,この地に墓参している。
そして,近くに庵を結んでしばらく逗留していたーー上皇の崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ毎夜この辺りから神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝える。
後嵯峨天皇の時代には荘園などが施入されている。
江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八箇所の七十九番札所であった。
摩尼珠院は行基が創建し、空海(弘法大師)が再興したと伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。
崇徳天皇社が創建されてからしばらく後、後嵯峨天皇の宣旨によりその別当寺となり「天皇寺」と称するようになった。
しかし、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻り、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。
きちんと整備された神社です。
正面には鳥居が見えますが、鳥居を超えた左右に天皇寺というお寺があり、どっちにいるのかよくわからなくなります。
2020.1.24参拝。
朱塗りの鳥居がひときわ目を惹きます。
境内の奥には樹齢500年の御神木の楠がありました。
天皇寺と一体化。
秋祭りには太鼓台が出ます。
保元の乱は,朝廷内の権力争いとなったが,この乱で敗れた崇徳院は,都を追われ讃岐に流される。
その後も継子いじめのような度重なる朝廷からの不当な取扱いに,憤怒と望郷の想いを胸にたぎらせこの地で没する。
崇徳天皇には,その出生からして,悲劇の始まりを予感させるものがあった。
白河法皇が自分と関係が継続していた待賢門院を,孫の鳥羽天皇の后にする。
その後も二人の関係は続き,やがて不義の子として生まれたのが崇徳院である。
鳥羽天皇の子として成長はするが,鳥羽院からみれば自分の叔父でありしかも子でもあることから,崇徳院のことを叔父子(おじご)と呼んだ。
保元の乱 崇徳院は,鳥羽天皇の後,即位するも退位を迫られ,弟が近衛天皇として即位する。
その近衛天皇が若くして崩御すると,崇徳院は自分の子を天皇にと願うが,崇徳院のもう一人の弟が後白河天皇として即位してしまう。
この後白河天皇と崇徳院との対立に端を発して,やがて保元の乱へと発展する。
この崇徳天皇と親交のあった歌人に西行がいる。
西行は,和歌を通してこの崇徳天皇と親交があったことから,天皇の死後8年して,この地に墓参している。
そして,近くに庵を結んでしばらく逗留していたーー上皇の崩御後、遺体を当地の清水に浸しておいたところ毎夜この辺りから神光が輝いたことから、二条天皇の宣旨を受け長寛2年(1164年)に造営されたと伝える。
後嵯峨天皇の時代には荘園などが施入されている。
江戸時代には崇徳天皇社野沢井宮・崇徳天皇明の宮などと呼ばれ、金華山妙成就寺摩尼珠院と一体の存在として四国八十八箇所の七十九番札所であった。
摩尼珠院は行基が創建し、空海(弘法大師)が再興したと伝えられ、崇徳上皇もよく訪れたという。
崇徳天皇社が創建されてからしばらく後、後嵯峨天皇の宣旨によりその別当寺となり「天皇寺」と称するようになった。
しかし、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻り、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。
厳かな感じで、心が落ち着く。
近くには、八十場の「ところてん」があります。
御朱印有りませんでした。
別当寺であった、四国八十八ヶ所の天皇寺高照院と隣接。
崇徳上皇ゆかりの地の1つである白峰宮。
島流しの末に亡くなった崇徳天皇をお祀りしている。
名前 |
白峰宮 (崇徳天皇社/明ノ宮) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0877-46-5966 |
住所 |
|
関連サイト |
https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%E7%99%BD%E5%B3%B0%E5%AE%AE/ |
評価 |
4.1 |
白峰宮(しろみねぐう)は、香川県坂出市に鎮座する神社で、明治維新以前は崇徳天皇社でした。
明ノ宮(あかりのみや)とも呼ばれます。
旧社格は県社で現在、さぬき十五社第九番に指定された神社になります。
保元の乱(1156年)の敗北により崇徳上皇は讃岐国へ配流され、同年旧暦8月10日に讃岐に上陸し最初の約3年間を林田の雲井御所で過ごした後、長寛2年(1164年)旧暦8月26日に崩御するまでの約6年間を鼓岳の御堂に幽閉されていたと云われ、その鼓岳は当地であるとの説があります。
「崇徳天皇」の扁額がある、三ツ鳥居が珍しく、見た目にも目立ってます。
御朱印は、天王寺の納経所とは別に樹齢約500年とみられるクスノキがあるところから出た二軒目の家が宮司さんのところでそこで書いてもらえます。