特筆する所はないです。
「丸亀市:金毘羅講燈籠」2021年12月のバイクツーリングで立ち寄りました。
碑文に書いてある文字は以下の通り。
金毘羅講燈籠(太助燈籠)の碑文丸亀は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。
金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年(一八三八)の製作で、髙さ五・二八メートル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人、柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識をかねたもので、江戸講中の代表八十両の最髙額寄附者の名をとどめて、一名「太助燈籠」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸に二基、福島湛甫に二基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。
金毘羅街道の「一の燈籠」である。
夜に行きました。
石灯籠にほのかな火が灯り往時を忍ばせます。
江戸時代に金比羅詣りした人たちの多くは、この火を見たんでしょうね。
付近は歩道が整備されていて石造りの常夜灯が灯り足元を照らしてくれています。
江戸時代にこんぴら詣りが流行し、各地からたくさんの船がこの灯籠を目指してきました。
灯籠としての明るさも強くないので、今は付近の街灯に埋もれて目立たないように見えますが、当時はこんぴらさんのお膝元にいよいよ上陸❗️というワクワクした気持ちをかき立てる、そんなランドマークだったのではないでしょうか。
この燈籠と東側の新堀は、江戸で講によりあつめた資金で建造されました。
その由来について、記録には次のように述べられています。
近頃、金比羅参詣人が日増しに多くなったので港が狭くなり、船が完全に港へ繋留できなくなり老幼の者は迷惑している。
そこで新しく新堀に湛甫を築きたい。
その経費として「講」によりたいが、残金が出れば燈龍を十二基建てたい。
完成すれば丸亀の繁盛は間違いないであろう。
なお船の入港税は十ヵ年自分たちに渡してほしい」と柏屋団次、大黒屋清太夫、備前屋藤蔵、阿波屋栄吉、山本屋茂助らが発起人となり藩へ願い出ています。
こうして、江戸での「講」の組織化が進められます。
これより数年前、江戸本所相生町 (墨田区両国二丁目)の塩原太助か金比羅参詣に来て通町の柏屋団治方で宿泊します。
その時に、団治がこの話を持ち出したところ大いに賛成してくれました。
そこで、江戸へ行った柏屋団治たちは早速に塩原太助を尋ねたところ、三代目太助は、講の世話はできないが八十両を五ヵ年間に出そう、と約束してくれます。
藩の江戸屋敷でも力を入れ、瀬山登、竹原清太夫らが中心となり、江戸の町人、伊勢屋点兵衛、河内屋伝兵衛、三島屋半七、林屋半六、三河屋善助の五人を世話役とし、相談の結果、講を次のように決めます。
①一人一ヵ月百文ずつ五ヵ年掛ける。
米の値段からみて、当時の一両は約六千六百文に当たるので五ヵ年では〇・九両になる。
一人で何口加入してもよい。
②三十人以上世話してくれた人には、五ヵ年のうちに1回金比羅参詣をしてもらい、その費用として三両差し上げる。
この規約によって大勢の世話人を定め、「讃州丸亀平山海上永代常夜燈講」として加入者を募ったのです。
天保四年八月に新堀湛甫が竣工し、天保八年には講の期限が来たので一応金額を纒め、燈寵も三基注文します。
燈寵は丸亀藩江戸屋敷出入りの大工大和屋和助を棟梁とし、鋳工は江戸の森田屋仁右衛門と鋳鉄の盛んな武州川口(埼玉県川口市)の名門永瀬文右衛門藤原富次、その子喜一郎に依頼します。
こうして出来上がった燈寵を丸亀へ運び建設したのです。
これが、この燈籠です。
台石に二ヵ所と燈龍の竿の所に江戸講中とあるので、「江戸講中燈龍」あるいは「金毘羅青銅燈寵」といいます。
しかし、最高八十両を寄進した塩原太助の名をとり、「太助燈寵」の方が親しまれています。
◇ 講の清算 いったいいくらのお金が集まったのでしょうか。
それから三年後の天保十二年の千人講の記録には三千五百九十五両余とあります。
講は約十年間続けられ、応募人数は三千九百五十五人に近い大事業であったようです。
この金の使途ははっきりせず、後の批判と不幸を招くことになります。
◇ 姿を消した燈龍 燈龍三基のうち現存するものは「太助燈寵」一基だけです。
他の二基はどうしたのでしょう。
記録によれば、その後、太助燈籠に遅れて新堀湛甫入り口北側に建てられたとされます。
しかし、2基は太平洋戦争の際に金属回収のため献納されたと伝えられています。
大好きな場所です。
小学生の時、商店街をみんなと歩いてここまで来ました。
想い出深いところです。
たまに歩いて見に来ます。
懐かしくてほっとします。
丸亀の素敵な宝物。
丸亀港に立つ太助灯籠は、金毘羅詣で賑わった丸亀港のシンボル的なモニュメントです。
旧金毘羅五街道の一つ丸亀街道の出発点にあたる場所に保存されています。
名前 |
金毘羅講燈籠 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.marugame.lg.jp/sightseeing/spot/tasukedoro/index.html |
評価 |
3.7 |
京極大橋をのぞむ波止場に緑青で一際目立つ意匠の灯籠です。
その昔、江戸時代に金毘羅参詣がブームになり、金毘羅宮までの街道の始点にあたるこの新堀湛浦の港湾整備が行われ、江戸講中約1350名の寄付を集め1830~44年に3基建立されました。
太助灯籠の太助とは、その寄付額が一番多かった塩原太助の名に因んで呼ばれたそうです。
今風に言うと、瀬山登さんが東京の金毘羅参詣メンバーシップで燈籠建立クラウドファンディング行って支援最高額の塩原太助さんへのリターンが…戦後残った1基を昭和41年に補修、のちに復元、昭和末期に高さを一段上げ、今の姿に至ります。