歴史好きなら知っているかも。
本家の植田氏が家臣筋の十河を息子に継がせ、守護の細川氏の有力被官国人だった西の香西、東の寒川、守護代の安富に囲まれこれらに対抗するために、阿波の三好に近づき、ほぼ十河家を乗っ取られる形で、三好長慶の弟が十河家を継承した。
ちなみに西讃の香川氏は長曾我部侵攻時に和睦し、ここも家を乗っ取られる形で養子として香曾部家や長曾我部氏の香川氏が誕生した。
ただ、三好氏は阿波の生まれというだけで、殆どは京都で過ごし、細川という傀儡を操って機内を席巻したまでは良かったが、佞臣には佞臣が付くもので、結局は獅子身中の虫に食いつくされて滅んだ。
三好派在地で地元の支配を顧みなかったことで、在地支配の力が弱く、結局はその辺の弱小勢力の1つでしかなく、大した抵抗もしない内に長曾我部に滅ぼされた......猿に泣きついて旧領は回復したものの島津征伐でセンゴク君がテンパり過ぎて戦死する憂き目を見た上で、お家取り潰しの憂き目に遭った運の無い十河さん。
十川という地名が残り、このあたりには子孫の十川姓がかなり居る。
また本家の植田姓も多い地域。
ちなみに言えば三谷さんも親戚だ。
約500年も経てば、長曾我部の先手をやらされた香川・香西連合軍の包囲(どうせヤル気が無いから....)にも耐えた十河砦も、もう跡形も無い。
だって、保存する意味もないからね。
江戸時代の人は保存しようとか考えないから。
子孫を名乗る十河さんが喫茶店と簡単な資料館を経営されています。
十河姓の人なら全員子孫ですからね。
コロナで中止になっているが、城まつりで甲冑コスプレイベントも開催されます。
保存されていない、跡形も無い...と嘆く人が多いが、近世城郭を構えていない城跡なんて、市街地や耕作地に立地するものは数えるほどしか残っていない。
地形も当然変わる。
称念寺を建造するにあたり、かなり造成されていて、ハッキリ言えば、城があった跡地....程度で防御施設の遺構は跡形も無い。
十河城跡は現在は称念寺と住宅地、田畑になり、ほぼ原形を保っていません。
東西の谷地形に挟まれた舌状の台地に所在し南に大手を設け三方向は湿田に囲まれ、五重の土塁と深く切り立った掘が有り攻め入る隙がなかったと言われています。
現在の称念寺が有る約六十メートル四方が主郭で西と北側に腰郭の平坦地が付属している。
北側に空堀を造り土橋で北の郭と繋がっている。
南北朝時代から十河氏の居城であった。
十河氏は神櫛王の末裔で植田氏の一族と伝えられている。
天文年間(1532~1555年)には阿波の三好長慶の弟一存を養子に迎えた。
一存は「鬼十河」と恐れられた猛将で畿内各地で戦い讃岐でも勢力を拡大した。
後を継いだ存保も三好家からの養子であり讃岐の旗頭として活躍した。
天正十年(1582年)十河城は土佐長宗我部元親軍三万六千の兵に取り囲まれ一度は土佐へ引き返させたが天正十二年(1584年)に開城した。
天正十三(1585年)に豊臣秀吉による四国出兵により山田郡二万石は再び十河存保に与えられるが翌年九州の戸次川の戦で敗死し、その後、子の千松丸も早世したことから廃城となる。
城跡としては、何も残ってない。
100mぐらい離れた北方面に、十河家の墓があります。
こちらの方が武将の思いを感じるには良い場所です。
少し道が狭いですし、駐車場は食べ物屋なので時間帯を外した方が良いです。
城跡の寺から歩いて行ける距離です。
名前 |
十河城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
ここは寺になって何もないので、迂回して、十河一存、十河存保墓所に行った方が良いです。