その形状もある程度残っていました。
四国最大の前方後円墳1993年には国の史跡にも指定されています。
5世紀前半に造られたもので、全長139m、高さ15m。
四国第2位の規模である徳島市の丸山古墳(105m)と比べても、その傑出度は高いものです。
後円部には妙見神社があり、そこからは前方部や、見晴らしの良い景色が眺められますが、少し急な階段を登ります。
スニーカー等、歩きやすい靴で行くことをオススメします。
駐車場は「みろく通池公園」の東にあります。
草もなく、外観から前方後円墳と直ぐ分かる様になっていてとても興奮します。
四国最大と看板に書いてあり大切にしないといけないものと感じました。
しいて言えば、誰の墓なのか?出土品は何処で展示してあるのか?現地で分かれば、見に行きたかったので何とかアナウンスして欲しい❗
四国最大の前方後円墳で国の史跡に指定されております。
何気なく通っていたら気付かないくらいですがこうやって来てみると、なかなか凄いものなのですねー。
すごく気軽に来ることができますので歴史を感じたい方は一度訪れてみては🌝?車でお越しの方は近くのみろく通池公園の駐車場にお停め下さいませ🌝
お伺いしてみると、大きさは四国最大の前方後円墳で、その形状もある程度残っていました。
地域密着的と言うべきか、一つは円墳側に鳥居さんと石段があり上で神社がお祀りされていて、もう一つは方墳側サイドからも通路と鳥居さんがあって、とても行き来しやすい状態です。
派手さはありませんが集落にゆったりとある感じの古墳でした。
墳丘長139mの前方後円墳、築造時期は5世紀前半頃と推定。
四国地方では最大規模の古墳。
富田茶臼山古墳の被葬者は不明、ヤマト政権と強く結びついた勢力であったとされている。
旧事本紀の「国造本紀」には『応神朝の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫の須売保礼命を讃岐国造に定められた』とあり、この人物と関係がある可能性がある。
茶臼山古墳は四国最大の前方後円墳で長さ139メートルあります。
築造年代は5世紀前半と考えられています。
畿内の大型前方後円墳に共通した楯型の周濠と周庭帯が巡る特徴をもつており、中央大和朝廷との強い結びつきを物語る貴重な文化遺産として国指定文化財となっています。
又この古墳は戦国時代には茶臼山城として寒川氏の出城になっていました。
この古墳の後円部の平坦地に妙見神社が祀られています。
この辺りが本丸跡であり、櫓を設けた平山城であったようです。
城主は寒川左馬充常憐である。
四国最大の前方後円墳です。
墳丘の周囲には盾形の空堀をめぐらせていますが、地理的な制約をうけてか、南端部がやや不整形です。
後円部北側と空堀の一部が県道によって壊されています。
明治時代に後円部に相撲の土俵をつくる工事がおこなわれ、そのさい板石が露呈したと伝わります。
おそらく竪穴式石室の天井石でしょう。
その他に墳丘上に円筒埴輪、家形埴輪それに葺石があることが知られています。
古墳時代中期前半に築造と考えられています。
この古墳を考える場合に、まず指摘できるのはこの古墳周辺には先行する古墳群がないということです。
しいてもとめるならば、北方約三キロの津田湾の沿岸ぞいにつぎつぎと築かれた前方後円墳群になります。
津田湾には古墳時代前期に築かれた積石塚一基をふくむ五基の前方後円墳が並立するかのように作られています。
これらの古墳は、その数からみても一つの系譜では、捉えられません。
複数の有力首長の存在とその連合が古墳中期になって、内陸部に進出しこの古墳を築造したと考えられています。
そのため国の指定を受ける場合にも、「津田湾古墳群」ではなく「津田古墳群」として、この古墳も入れたようです。
名前 |
富田茶臼山古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.0 |
四国ではハッキリ確認出来る前方後円墳です。
神社と一緒になっており簡単に登り切れます。