平成6年にできた記念碑どす。
横浜居留地商館跡・横濱バザールの斜向かいにある。
開港当時はこの近辺は中・米・英・仏・独・伊・印等の国々が治外法権の下商業活動を営んでいたそうなので『海外新聞』の需要はあったのだろうと推測する。
ジョセフ彦こと浜田彦蔵は、日本人で 唯一リンカーン大統領と握手した事がある人物。
木戸孝允・伊藤博文・坂本龍馬など、多くの人に民主政治を説いた先駆者でもある。
♪︎波瀾万丈 ……生粋の日本人=濱田彦蔵出生地 …兵庫県播磨町 1837年生まれ😭乗船した船 (栄力丸) が紀伊半島 大王岬沖で嵐のため難破、52日間 太平洋を漂流😁🌀南鳥島付近で、オークランド号に発見され救助、サンフランシスコに滞在 。
ボルチモアで洗礼をうける(洗礼名u003dジョセフ・ヒコ)。
滞在中に様々な教育、近代文化に触れる♪︎日米修好通商条約、鎖国解除キリシタンの洗礼を承けているので、帰国出来ず。
帰化してアメリカ国民となり、ジョセフ ヒコと名乗る♪︎駐日公使 ハリスに神奈川領事館通訳として採用され9年振りに日本へ帰国♪︎海外新聞を発刊民主主義に魅了されていたので、英字新聞を翻訳して此の地で発刊。
☆引用 「新聞の父 ジョセフ・ヒコ 播磨町」♪︎横浜の地、道行く人は多けれど足を止める人はいない 2021/10/24
この場所で1864年6月28日、ジョセフ・ヒコ(ジョセフ彦=浜田彦蔵)が、外国新聞を翻訳編集し、日本初の邦字新聞『海外新聞』を発刊した。
ジョセフ彦は、1837年(天保8年)兵庫県播磨町に彦太郎として生まれた。
1850年(嘉永3年)、江戸から船で故郷に帰る途中暴風雨に遭遇し、50日余り太平洋を漂流した後、アメリカの商船に救われ、アメリカに渡った。
税関長サンダースに可愛がられた彦は、アメリカで教育を受けカトリックの洗礼を受けた。
この時「ジョセフ」のクリスチャンネームを受け、ジョセフ彦と名乗るようになり、アメリカの国籍を得た。
1859(安政6)年アメリカ領事館の通訳として、ハリスとともに開国直後の日本に着任した。
一旦アメリカに帰国後、1864(元治元)年再来日し、わが国最初の新聞を発刊した。
「海外新聞」は月刊で、半紙4~5枚を仮綴したもので、最初は手書き後に活版印刷を用い、2年間で26号まで発行したといわれる。
その後、1897(明治30)年に60歳で没するまで、新生日本の発展に尽くした。
現在も東京・青山に浄世夫彦の墓が残されている。
横浜中華街の関帝廟通り沿いにひっそりと佇んでいます。
近くには関帝廟があります。
ここは日本の新聞の誕生の地らしく、石碑に書いてあることを読むと「ここ、横浜の元居留地一四一番は、一八六四( 元治元 ) 年六月二十八日、 ジョセフ 彦が、「 海外新聞 」 を発刊した居館の跡である。
彦は、 リンカーン大統領と握手した 唯一の日本人であった。
リンカーンの民主政治が 勃興期の米国の新聞の力に負うところ大なるを体得し、開国したばかりの祖国のため、日本最初の新聞を創刊し、「 童子にも読める 」 新聞精神を提唱した。
読みやすく、判りやすい新聞を、創世記の日本の新聞界に植えつけた 新聞の父 彦 の功は大きい。
さらに木戸孝允、伊藤博文、坂本龍馬など多くの人々に民主政治を伝えた彦は、民主主義の先駆者として、およそ新聞を読むほどの人々の心の奥に残る 文化の恩人であった。
」とあります。
リンカーン大統領と握手した唯一の日本人がジョセフ 彦氏だった事も学べましたが、この様に「日本初」というものが横浜には多くあるので、探索しながらの撮影が楽しめます。
名前 |
日本国新聞発祥之地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
平成6年にできた記念碑どす。