幕末 仙台藩の警備地(千島列島から登別迄)の元陣屋...
土塁や堀跡が残り、門や橋を復元されている。
北海道には珍しい、広義の城跡と言えそう。
とても良かった。
土塁がとても良く整備されてる。
この施設は、1856年、幕府に蝦夷地防衛のため仙台藩を中心に築かれた本陣跡地です。
現存する当時の建物はありません。
1854年、幕府が鎖国を解いてアメリカ、ロシアなどと和親条約を結び函館港を開放し、交易を行った。
このため1855年に幕府は。
蝦夷地を直轄とし、仙台藩を中心に警備に当たらせた。
仙台藩の守備範囲は、襟裳岬を超え、国後。
択捉までの東蝦夷地であったため、広尾、厚岸、根室、国後と択捉に出張陣屋を築いた。
この本陣は、堀と円形に土塁で防備し約200名程が駐屯し警備に当たった。
1868年の戊辰戦争の勃発までの12年間慣れない土地で警備に当たった仙台藩士達の苦闘がこの本陣跡に刻まれている。
さすがに東北最大の仙台藩の陣屋だけあってかなり大規模なものでした!室蘭の南部藩の陣屋とは桁違いの大きさやな😃だけどこの辺りはいまでもヒグマがしょっちゅう出没する地域らしく幕末にこの地に来た侍は心底恐怖やったやろな😱侍たちがいったいどんな基準で蝦夷地赴任を命ぜられたのかは知らんけどめっちゃ嫌やったと思うわ💦だけど当時のことやから上からの命令に対して拒否権はないやろしほんまにたまらんかったはずです😢それから気になったのは陣屋がちょっと海岸から遠くないかな…ふとそう思ったです😅
1856年に仙台藩の方々が蝦夷地を守る目的で白老で暮らした場所です。
ここを拠点として北方領土という広い範囲まで出張所を作り守っていたらしく非常に驚きました。
実際の跡地では、石碑や案内板により、当時どのような町であったかを知ることができます。
物として残っているものは樹齢160年の赤松や、神社の鳥居等しかないですが、歴史を体感できます。
江戸幕府から東蝦夷地の警備を命ぜられた仙台藩によって構築された陣屋。
当時の藩主は実質的に最後の仙台藩主となった伊達慶邦。
幕末 仙台藩の警備地(千島列島から登別迄)の元陣屋(本拠地)建物も全て平面復元されている。
門は立体復元❗本曲輪の後方には陣屋や警備地の歴史が学べる資料館☝️ウホポイだけでは片見学‼️
白老はアイヌの町だと思っていたのですが、仙台藩にもゆかりがあるのはしらなく、大変勉強になりました。
土塁、堀、門の位置、屋敷の柱位置、縄張りがはっきり分かり、良好な陣屋跡です。
縄張り図や遺構の看板もあって分かりやすくなっています。
のんびり散歩して、ちょっと地元のものを見るという日もあっていいと思える場所です。
江戸幕府は嘉永7年の「日米和親条約」によって鎖国に終止符を打ち 北方の緊張が続いていたためロシアの南下政策を警戒した幕府が松前藩や東北諸藩に蝦夷地の分割警備を命じ各藩は計24カ所の陣屋を築いて沿岸の警備にあたった仙台藩は白老から襟裳岬を経て国後島・択捉島までの東蝦夷地を守備範囲とし安政3年に陣屋を白老に築いた明治維新によって時代が変わり慶応4年・明治元年に戊辰戦争が勃発すると官軍が白老陣屋を攻撃する危険性が高まったため藩士は白老を離れて仙台に引揚げ陣屋は12年の歴史に幕を閉じた-modified from wiki因美日親善條約江戸幕府於1854年結束鎖國政策因北方情勢持續緊張幕府為了防範俄羅斯的南下命令松前藩與東北諸藩 在蝦夷地劃分各自警戒範圍各藩在沿岸合計建築了24處陣屋進行警備仙台藩的守備範圍為由白老經襟裳岬至國後島・澤捉島1856年於白老興建陣屋 明治維新帶來了時代變遷1868年戊辰戦争爆發後因新政府軍很可能會攻擊白老陣屋仙台藩藩士離開白老退守仙台結束了陣屋12年的歴史。
幕末の流れを知るにはすごく良い資料館。
陣屋がなければもしかすると新渡戸稲造の『武士道』がこの世の誕生してなかったかも知れない。
勘定奉行新渡戸 十次郎(新渡戸稲造の父)を派遣し、持ち場を検分させた記録があるからね。
←新渡戸十次郎が検分したのは南部陣屋だけど。
南側からの登城をお勧めします。
仙台藩白老元陣屋(せんだいはんしらおいもとじんや)は、北海道白老郡白老町陣屋町にある国指定の史跡で、幕末期にロシアの南下政策を警戒した幕府が松前藩および東北諸藩に蝦夷地の分割警備を命じ、そのうちの仙台伊達藩は白老から襟裳岬を経て遠く国後、択捉両島までの太平洋側東蝦夷地の警備を命じられました。
このために仙台藩は白老の地に元陣屋を築くことを計画し、根室、国後、択捉にも陣屋の計画をします。
元陣屋の場所は西に白老川、東にウトカンベツ川が流れる両川に挟まれた地にあり、1856年(安政3年)に完成しました。
元陣屋は面積が約66,000 m²、堀と土塁に囲まれた曲輪があり、内曲輪と外曲輪の中に6基の門を構えて本陣・勘定所・殻蔵・稽古場・長屋などを築き、常時120名の藩兵が駐屯していたと思われます。
令和元年 5月4日桜が咲き始めました。
コブシは満開です。
🌸=蝦夷山桜⇒約300本。
「白老にお城があった!」で始まるガイダンスビデオをいの一番に見よう。
飢饉による財政難の折に幕府より命ぜられ、ここ白老から遠く択捉島迄の太平洋沿いの北海道沿岸をロシアからの脅威からまもるべく派遣入植させられた仙台藩士らの開拓の苦労と戊辰戦争の為にこの地を捨てて仙台へ逃げ帰る苦労の物語の博物館。
よく此れだけの史実が掘り起こせたと驚く。
それもひとえに仙台藩士達はアイヌと融和して食糧の融通・医療の提供・生活の知恵の交換などで地元に史実が残ったと考えられる。
常駐学芸員の方も親切でいろいろな疑問にもフランクに答えてくださいました。
Historical Remains of the Sendai Clan's Fortthe largest historical fort in Hokkaido
お散歩最高!
江戸時代・・・蝦夷地と呼ばれた北海道には「武田信玄公」を祖先に持つ「松前藩」が道南に有った・・・。
ペリーが黒船を率いて日本に来た頃・・・時を同じくしてロシアも海外交易を目的に、北海道(当時の蝦夷)近海に度々現れるようになり、危機感を感じた江戸幕府は「蝦夷地警備」として、蝦夷地に近い東北(みちのく)の6藩に依頼した。
余計な事だが・・・ペリー艦隊は「大砲を撃ち、腕ずくで開国」を迫ったのに対し、ロシアは「この地では、交渉は出来ないので、下関に・・・」と言う言葉に従い、翌年の交渉になった為に、アメリカに後れを取ってしまったようだが・・・取り様によっては「紳士」とも言える。
「幕末」とは後で言われた言い方だが、どの藩も経済的には、行き詰っている中での「出張命令」みたいなモノで、各藩は苦労したようだ・・・特にその中でも一番大きな藩「仙台藩」は、概ね北海道の南半分と、今で言う北方4島も警備範囲で、その拠点として築いたのが「白老陣屋」だったようだ・・・機械力のない中、仙台から1~2ケ月も掛けて歩いて行って造った出張所?と言っても、立派な城構えで、2年ほどで造り上げたとは思えないほどである。
警備も広範囲で、白老の他にも何箇所か「陣屋」を設けたようだが、今は基礎石がわずかに残るのみ・・・悪口ではないが、松前藩は先住民のアイヌの人たちに対し、対等な取引を行わなかったのに対し、仙台藩は「共存」を目指して、対等な交流を行ったようで、アイヌの皆様にも受け入れてもらっていたようだが、時は大きく変わろうとしていた「幕末」・・・言わば国策で行われた北方警備も薩摩・長州・土佐の各藩主導による戊辰戦争へと移り、情報が遅れていた白老は、残念ながら敗北の衆となってしまい、逃げるようにその地を追われ・・・小樽より海路、仙台まで戻ったようだ・・・この様な事から、仙台藩としても自慢できる歴史とは言えず、かろうじてその後、明治時代となり仙台藩からは「白石」「亘理」などから移住をした方々が、今の北海道の札幌白石区や登別市・伊達市等々の基礎を築いたのも、幕末のここ「仙台陣屋」が少なからずとも、アイヌの皆様とも共存していた事が足がかりになったのは、間違いない事だと思う。
しかし、同じアイヌの方々の中にも「白老のアイヌは、教えに背いた!」との見方が当時からあり、今に至っているとの事で・・・心苦しい・・・それは、アイヌの教えとは自然との共存で総ての物は神からの授かりもので、生活に必要な最小限度の狩りを重んじていたのだが、白老では遡上する鮭等を、和人と言われた仙台藩と、貿易をして金品と交換して居た事が、その原因かと思われる・・・。
我が先祖一族も、苦労したようで・・・おいらは、毎年「北海道の旅」は白老陣屋に始まり、白老・ポロトコタンで終えるように、計画しているんです・・・。
白老陣屋の近くには、「塩釜神社」「愛宕神社」「仙台藩士と関係者の墓」なども有り、本当は広く・・・あの時代の大きな変化の中で、苦労した方々を、思いやっていただく機会が有れば・・・と、願ってやみません。
最後になりますが・・・白老の皆様方には、今でもそれら総ての関係場所の除草や、清掃、整備を行って頂いている様でして・・・感謝いたしております。
名前 |
白老仙台藩陣屋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[火水木金土日] 9:30~16:30 [月] 定休日 |
評価 |
3.7 |
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江戸時代に外国からの侵略に備え、仙台藩から派遣された数ある館の本拠地になった場所。