この地に上陸後、この鎮守社に、あるときは弊を手向け...
若一王子神社(県指定史跡) / / / .
ご祭神:天照大神,伊邪那美大神,速玉男大神,事解男大神,須佐之男大神,菅原道真公,不詳,豊受大神,三筒男大神,大地主大神,蛭子大神,猿田彦大神境内社・玄古社(武田三郎公神霊),弘春社(右馬充弘春公の神霊),西ノ宮神社(事代主大神),弁財天社(市杵島姫神),稲荷神社(宇賀御霊大神),金比羅神社。
熊野街道沿いには、ここに鎮座する神社のように多くの若一王子が祀られています。
若一王子とか若宮とか王子宮といわれるものは、荒れる神様をまつったものです。
けっして主神である神様の子どもという意味ではないというのが、最近の宗教民俗学・宗教学あるいは民俗学ではほとんど定説になつている考え方です。
若宮八幡は八幡さんの子どもではなくて、八幡さんの荒魂です。
崇りやすい神様、御霊神だと解釈すると、若宮というものがよくわかります。
日本の神様、とくに民俗信仰における神様は、霊験あらたかな神様ほど崇ります。
若宮として荒魂の神、崇る神をまつれば、親神様に当たる御本体の神様よりもよく願いを聞いてくださるということで、若宮信仰は大きくなりました。
ですから、若一王子は天照大御神でもなんでもなくて、要するに崇り神の代表者です。
その他の王子は手向の神と書かれています。
平安時代には手向を受けるような神でした。
その場合、木の下に旅で亡くなった人の霊をまつったようなところに王子がまつられています。
手向に供えるのは柴や花です。
常磐木の枝を花とも柴ともいって、そういうものを折って手向けました。
ですからこのあたりには、各所に柴神様とか花折峠か花立峠があります。
柴神様には通る人が木の枝を折ってあげています。
それが崖から落ちて死んだ人、あるいは途中で病気で亡くなった人のための手向です。
天照大御神と決めてしまうのは後世の信仰で、本来の信仰ではありません。
ところが、江戸時代に入ると、どこでも神道化が進んで、中世までは社僧が経営していたところも、のちには神主・禰宜のほうにいってしまいます。
紀州藩などはとくにそうです。
禰宜を非常に保護して、できるだけ還俗させました。
明治維新を待たずして神仏分離が進行していたから、江戸時代になると天照大御神が出てきます。
『若一宮縁起書上巻』によると、「甲斐源氏末葉武田三郎が、往時当浦海岸に来た時、たまたま波に漂っている筐を拾いあげたところ、日ごろ崇敬していた5体の王子大権現の尊像が納められていた、以来肌身離さず厚くあがめたが、後年再びこの地に来て、夢告により一宇を建て尊崇怠らなかった」と伝えている。
しかし宝歴7(1757)年5月、本殿等修理の際、境内山林西南隅で発掘した経塚出土品中「紙本法華経八巻」の中第四巻を除き、各巻に保元3(1158)年戌寅10月23日の奥書があり、かつ第一巻願文中に「奉埋千王子之上了」の記事があるので、武田三郎の出生により以前に既に鎮座していたことが確実である。
しかも、平安中期から熊野信仰が盛んになるとともに、海路をとった参詣者がこの地に上陸後、この鎮守社にあるときは幣を手向け、あるときは休憩所とし、あるいは遙拝所としたのが王子社の成立と言われているから、保元以前の鎮座と考えられる。
『続風土記』に「旧社なること知るべし、境内も広く大社なるをおもうに、この地旧熊野の神領なりしより勧請せしならんか」とあるが、神領であったと言う記録は今のところ見あたらず、『古今年代記』によると「元禄元(1688)年までは小社なり、然ば正徳辰の(1712)年に宝殿、拝殿長床共に建替云云」とあるように、江戸中期から比井浦回船業が盛んになるとともに、徐々に社殿、境内も整備され、やがて現在の規模となったと思われる。
本居太平(江戸時代の国学者、本居宣長の養子)の歌碑がある「磯ちかく わかめかりほす あまの子の やどもしられず かすむ春かな」(本居太平)日高町教育委員会の説明板によると、比井の海岸を見て詠んだ歌とのこと。
名前 |
若一王子神社(県指定史跡) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0738-64-2538 |
住所 |
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評価 |
4.3 |
平安中期から熊野信仰が盛んになるとともに、海路をとった参詣者が、この地に上陸後、この鎮守社に、あるときは弊を手向け、あるときは休憩所とし、あるときは遙拝所としたのが王子社の成立と言われていることから、保元以前の鎮座と考えられています。
江戸中期から比井浦回船業が盛んになるとともに、徐々に社殿、境内も整備され、やがて現在の規模になったと考えられています。