名前 |
景行天皇高田行宮伝承地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
高田行宮(たかたのかりみや)伝承地です。
あんぐう と読む場合がありますが、一時滞在の建物なので、かりみや の方が実相が伝わると思います。
明治になって、旧三池郡(延喜式では、三毛郡)内の2つの比定地から、立花種恭公(三池藩最後の藩主。
のち学習院初代院長。
)により、今の場所に裁定されました。
ここで、宮内省などの裁定ではないことに、注意すべきです。
明治初期は、朝廷に関するあらゆる疑問や問題に、決着をつけるようになりました。
一方で、論争が止まった事例もあります。
それは、玉垂命(高良大社、大善寺玉垂宮など)は誰なのか という疑問です。
それまでは、武内宿禰であるだろうという考えが大勢で、一部に藤大臣という説がありました。
よって、高良大社は武内宿禰に、大善寺玉垂宮は藤大臣とされています。
高田行宮伝承に戻ります。
ここで、高田行宮は、本当に たかた(のかりみや)と読むのかが、私には疑問です。
古事記・日本書紀は、原則として 今の音読み で、読むからです。
そうすると、高田は コウダ になります。
福岡県大牟田市には、小字で、幸田や上高田・下高田の地が、別の地にあります。
その読みは、大牟田市立図書館(カルタックスおおむた内)の、元大牟田市役所職員の方の大字・小字をまとめた本(ブックレット)に、まとめられています。
(更新)(日本書紀 巻第七 景行天皇条 全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社学術文庫より)秋七月四日、筑紫後国の三毛(福岡県三池)に着いて、高田の行宮(かりみや)におはいりになった。
時に倒れた樹木があり、長さ九百七十丈(注:丈=3メートル)。
役人たちは皆その樹を踏んで往来した。
時の人は歌をよんで、アサシモノ ミケノサヲハシ マヘツキミ イワタラスモ ミケノサヲハシ(消えやすい朝霜の置いている御木の小橋を渡って群臣たちは宮仕えに行くことだ)天皇はこれは何の樹かと尋ねられた。
一人の老人が申し上げるのに、これは歴木(くぬぎ 檪。
)といいます。
以前まだ倒れていなかったときは、朝日の光に照されて、杵島山(注:きしまやま。
佐賀県の天山の西にある山。
)を隠すほどでした。
夕日の光に照されると、阿蘇山を隠すほどでしたといった。
天皇は、この樹は神木である。
この国を御木国(みけのくに)と呼ぼうといわれた。
と、あります。
3メートル✕970ですから、2000メートルを超えます。
それで、何を荒唐無稽な となるのですが、ここで、朝日の光 阿蘇山 杵島山が登場するのには、理由があります。
季節は違いますが、九州三池(現福岡県大牟田市。
延喜式では、三毛郡。
)の冬至(12月)の頃は、朝日は阿蘇山方面から昇ります。
その頃の満月(2022 年は、12月初旬。
)は杵島山方面に早朝沈みます。
つまり、日本書紀は最も短い字数で、九州三池(有明海東岸)の地勢を表しているのです。
現在の福岡県大牟田市の黒崎漁港(黒崎観世音古墳地先。
三池干拓北端の隈川河口。
)からの写真を撮影しました。
写真1は、12月下旬の朝日の様子(写真中央が阿蘇山の方角。
)写真2は、撮影地点で振り返って、写真中央が、山影が雲でとらえられていないのですが、佐賀県杵島山の方角です。
参考として、三池藩が江戸時代に一時転封された、現福島県伊達市(旧月舘町)下手渡(しもてど)にある、つきだて花工房から見た12月初旬の早朝の朝日の昇る様子(写真3)と、満月の沈む様子(写真4)を添付します。
九州三池から1000キロメートル以上は離れた、東北下手渡に転封された三池藩主・藩士たちは、新たな地で励みつつも、冬至の頃に故郷を想い、どのような気持ちで昇る朝日と沈む満月を観ていたのでしょうか。
(注):江戸時代は、筑後国三池郡黒崎(現福岡県大牟田市)は、三池藩祖の立花直次の実兄である立花宗茂の柳川藩の領域になっていました。
三池郡は、まず秀吉時代には、立花直次が封じられています。
江戸時代は兄弟とも大名に返り咲いて、のちに旧領を回復します(直次は江戸で亡くなり、子の種次の代で三池郡南部に封じられた。
)。
それで、三池郡は南北に分けて治められていました。